第82回 浜風も秋めく遠足「ボチボチ歩こう根岸と中村川―横浜の高低差を体感する」
日程
- 2019年10月5日(土)
案内人
- 木下直之(静岡県立美術館)、平野正裕(横浜市)、澤田るい(横浜市)
解説者
- 門脇愛(馬の博物館)、ライアン・ホームバーグ(東京大学)
横浜が開港すると間もなく、幕末の内に居留地南の根岸台地には外国人遊歩道、競馬場、射撃場が置かれました。明治になると中国人墓地「中華義荘」(1892年には「地蔵王廟」建設)、1902年には根岸外国人墓地が山手のそれとは別に生まれ、さらに横浜の発展にともない日本人のための広大な共同墓地も開設されました。根岸は横浜港の後背地として、生者に対しては憩いの地を、死者に対しては永遠の眠りの地を提供してきたことになります。
戦後は競馬場を中心に占領軍に接収され、米軍住宅が建設されました。住宅地の返還は1984年になってからのことです。根岸森林公園も馬の博物館(1977年開館)も段階的な接収解除によって実現しました。この遠足では、都市が後背地をどのように開発利用してきたかをテーマに、3つの墓地を結び歩きながら、外国人の「居留と占領」が横浜の歴史をどのように彩ったかを考えます。最後には、台地を中村川に向かって一気に下り、横浜の高低差を体感します。横浜最古のピン結合トラス橋「浦舟橋」(1893年建設)が遠足の終着点です。
報告記事大島十二愛 OSHIMA Sonia(共立女子大学)
10月とは思えないほどの夏日となった当日、JR根岸線山手駅改札に集合するところからスタートした。普段の遠足と違うのは、お弁当を持参せよとのお達しがあったこと。なぜならスタート地点の駅界隈のコンビニを逃すと、ゴール地点の横浜橋商店街あたりまで飲食店はほぼ皆無と言われていたからだ。それぞれ飲料や保冷剤を調達しつつ、まぶしい日差しに照らされながら歩き始めた。
最初に向かったのは根岸外国人墓地。1880年に当時内務省が山手外国人墓地の後継地として墓地建設を認可し、1902年に開設されて以来、横浜市が管理を行っている。墓地の入口に掲げられた案内板は、文字の判読が困難を極めるほど色褪せ、もはや案内板の役割を十分には果たせずにいた。敷地内に入ると、大きな墓石や十字架が目に入る。この場所が、戦後米軍による接収をうけて朝鮮戦争時に仮埋葬地として使用されたこと、墓地の上方にある仲尾台中学校の生徒と教師らの調査によれば、敗戦後の占領下で米国人兵士と日本人女性の間に生まれた乳幼児の遺体が多く埋葬されていること等が木下氏によって解説された。墓地内は普段多くの人が訪れるような場所ではないらしく、あちらこちらに大きな蜘蛛の巣が張り、献花などもなかった。敷地内の上段に上ると、足元に小さな墓碑がいくつも出現する。草が茂っているため、危うく踏んでしまいそうになったが、慎重に歩みを進め奥へ行くと、「An ANGEL not by chance but by choice」と書かれている墓碑があった。生没年から生まれてすぐに亡くなった幼子のお墓であることが分かる。観光地化され華やかなイメージをもつ山手外国人墓地とは対照的に、ひそやかに時を刻む根岸外国人墓地。戦後の混乱のなかで根岸という地が背負わされてきた歴史を垣間見た気がした。
次に訪れたのは、根岸競馬記念公苑・馬の博物館と根岸森林公園。緑豊かで市民憩いの場となっている同地は、1866(慶応2)年に外国人専用の娯楽施設として初めて日本で開設された根岸競馬場跡地である。馬の博物館で開催されていた企画展「名馬と武将」を鑑賞し、同館学芸部の門脇氏に競馬場の沿革と戦後について解説いただいた。根岸競馬場で最初のレースが行われたのは1867(慶応3)年のこと、居留外国人にとって念願であった本格的洋式競馬場が整備され、定期的に競馬が楽しめるようになったのである。競馬場竣工当初は、居留外国人のみが利用していたというが、徐々に日本人も参加できるようになった。1880(明治13)年代になると、伊藤博文・西郷従道ら明治新政府の関係者たちも自ら競走馬を所有し愛馬をレースに出すようになり、その勝敗に一喜一憂する様子が当時の雑誌や新聞にポンチ絵と共に面白可笑しく紹介されていた。こうして根岸競馬場は、近代日本の政府関係者と海外要人との外交上の重要な社交場としても利用されるようになっていったのである。
昼食は、遠足らしく広々と緑の気持ちよい森林公園芝生広場でとることになった。地元の家族連れがキャンプ用品を持ち込んで、思い思いに楽しんでいた。この芝生公園も元々は馬場だった場所で、戦後米軍に接収されゴルフ場として使われた後、現在の公園になったそうだ。スタートから数時間、ようやく訪れたつかの間の休憩にお弁当が格別美味しく感じられた。お腹を満たして向かった先は、森林公園内にある「一等馬見所」。外国の古城を彷彿とさせる三つの塔がそびえる一角は、まるでここは異国なのかと見間違う雰囲気をたたえている。その塔の一番上に位置する一等馬見所からは、港が一望できるという。軍港が見わたせるこの一等馬見所は、戦況の激化と共に海軍省に問題視され接収され、戦後は米軍に接収された。今は横浜市の管理下にあり、一般の人は立ち入ることができない。老朽化を懸念し、建物を文化遺産として修復保全することを望む声もある一方、敷地の一部は米軍住宅と近接して現在も利用されているため、なかなか手をつけられないのが現状である。
続いて平野氏の案内で中華義荘と根岸共同墓地へ。南山手の住宅街に、華僑の方々を埋葬する場所として設けられたのが中華義荘(通称:南京墓地)である。横浜における外国人埋葬の歴史は平野氏の言葉を借りれば、長らく「欧米人ファースト」の歴史であった。中国人を含め外国人を埋葬してきた山手外国人墓地が手狭となったことに加え、中国人埋葬者の増加も相まって、国有地を貸与する形で中国人専用の墓地を設けることになったのだ。敷地内には横浜市内最古の近代建造物である朱塗の格子扉が印象的な地蔵王廟があり、本尊の地蔵王菩薩坐像が安置されている。その後、根岸共同墓地へ移動した。配布された資料には「爆発的に拡大した横浜の人口、故郷を離れてこの地に果てた者たちの『終の住み処』。雑然とした根岸共同墓地の有様は、予め計画することなどできなかった、横浜都市開発の速度と対応がままならなかったことからくる“ほころび”を感じさせる。」とある。園内を歩くと何か札のようなものが墓標につけられたものが目に付く。平野氏によれば、それらは墓の管理者に連絡がつかず管理費などの支払いが滞っているものなのだそう。さまざまな事情で墓参者が居なくなっている札付きの墓所は、どこか寂しく見えた。根岸共同墓地の中でもひときわ立派な門構えをした広い墓所がある。かつて横浜最大の生糸商人であった茂木家のお墓だ。呉服屋からデパート「野沢屋」となり、その後紆余曲折を経て「横浜松坂屋」として2008年にその歴史を閉じた。往時の茂木家の隆盛と今のもの悲しさを同時に感じさせる場所であった。
墓地のある高台を後にして細長い下り坂を降りると、中村川にかかる浦舟橋に出る。この橋は横浜市認定歴史建造物に指定されている赤い鉄製のピン結合トラス橋で、国内に現存するものでは最古。もともとは1893(明治2)年に山下町と元町・石川町を架橋していた「旧西の橋」で、関東大震災を潜り抜け、二度の移設の末、現在の場所に落ち着いている。浦舟橋から横浜橋商店街へ向かうと、番外編で京谷氏による三吉演芸場の解説があった。そこで「大衆演劇は1回ではなく3回みてから判断すべし」との金言をいただいた。商店街の路地を抜け、桂歌丸師匠ゆかりの金刀比羅大鷲神社に立ち寄って解散となった。横浜の歴史における光と影、そして高低差を存分に体感したこの日、ゴール後の万歩計は15,687歩をさしていた
行程
JR根岸線山手駅集合(11:00)→根岸外国人墓地(11:10)→根岸競馬記念公苑・馬の博物館(12:00)→根岸森林公園(13:50ごろ昼食)→旧根岸競馬場一等馬見所(14:30)→中華義荘と地蔵王廟(15:00)→根岸共同墓地(15:45)→浦舟橋(16:30)→横浜橋商店街・三吉演芸場、金刀比羅大鷲神社(17:00)→黄金町にて懇親会(18:00)