第49回 弥生の遠足 「早春の南房総に戦争遺跡を訪ねる」
日程
- 2013年3月16日(土)
案内人
- 鈴木廣之(東京学芸大学・会員)
気候温暖な南房総は、農業や漁業の資源に恵まれているだけでなく、東京から比較的便利な距離にあり保養地、観光地としても伊豆・箱根とならんで人気があります。ちなみに、布良〈めら〉海岸に滞在して《海の幸》(石橋美術館蔵)を制作した青木繁は東京と館山を汽船で往復しました。歴史的にみても、古くは滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』の舞台になったことで知られ、そのひとつ安房の国主里見氏の稲村城も戦国時代の遺構として城跡をこの地にとどめています。
南房総はまた、三浦半島とならぶ帝都防衛の最重要拠点としても機能しました。1895年(明治28)に「要塞司令部条例」が公布され、永久防御を可能にする砲台など軍事施設の骨格が定められ、1899年(明治32)に「要塞地帯法」「軍機保護法」が公布されると、南房総一帯は堅固な要塞化が進められ厳重な機密保持がはかられるようになります。1880年(明治13)に起工され1932年(昭和7)に完成された「東京湾要塞」は第一級要塞として知られ、海軍省が1931年(昭和16)7月に据えた「東京湾要塞標柱」も館山市内に残されています。1930年(昭和5)には館山海軍航空隊(現 海上自衛隊館山基地)が、霞ヶ浦などに次ぐ五番目の海軍航空隊として発足しますが、太平洋戦争も末期に近づくと地下壕や戦闘指揮所、作戦室などの地下施設がつくられ、さらに本土決戦にそなえた特攻基地も建設されました。
今回の遠足(案)は、NPO法人安房文化遺産フォーラム(http://bunka-isan.awa.jp/)にお願いして、これらの戦争遺跡の見学会を実施するものです。同フォーラムは、当時、高校の世界史教師だった愛沢伸雄氏(現フォーラム代表)が1989年(平成1)に授業実践のための調査研究から、地域の戦争遺跡保存を呼びかけ、市民規模の保存運動に広がったものです。2004年(平成16)には南房総文化財・戦跡保存活用フォーラムとしてNPO法人化され、以来、この地域に散在する多くの歴史文化遺産の保存に携わってきました。
文化資源学会第49回弥生の遠足「早春の南房総に戦争遺跡を訪ねる南房総・戦争遺跡」報告鈴木廣之(東京学芸大学)
1.趣旨と概要
気候温暖な南房総は、農業や漁業の資源に恵まれているだけでなく、東京から比較的便利な距離にあり保養地、観光地としても伊豆・箱根とならんで人気があります。ちなみに、布良(めら)海岸に滞在して《海の幸》(石橋美術館蔵)を制作した青木繁は東京と館山を汽船で往復しました。歴史的にみても、古くは滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』の舞台になったことで知られ、そのひとつ安房の国主里見氏の稲村城も戦国時代の遺構として城跡をこの地にとどめています。
南房総はまた、三浦半島とならぶ帝都防衛の最重要拠点としても機能しました。1895年(明治28)に「要塞司令部条例」が公布され、永久防御を可能にする砲台など軍事施設の骨格が定められ、1899年(明治32)に「要塞地帯法」「軍機保護法」が公布されると、南房総一帯は堅固な要塞化が進められ厳重な機密保持がはかられるようになります。1880年(明治13)に起工され1932年(昭和7)に完成された「東京湾要塞」は第一級要塞として知られ、海軍省が1931年(昭和16)7月に据えた「東京湾要塞標柱」も館山市内に残されています。1930年(昭和5)には館山海軍航空隊(現海上自衛隊館山基地)が、霞ケ浦などに次ぐ5番目の海軍航空隊として発足しますが、太平洋戦争も末期に近づくと地下壕や戦闘指揮所、作戦室などの地下施設がつくられ、さらに本土決戦にそなえた特攻基地も建設されました。
今回の遠足は、NPO法人安房文化遺産フォーラム(http://bunka-isan.awa.jp/)にお願いし、これらの戦争遺跡の見学会を実施します。フォーラムは、高校の世界史教師だった愛沢伸雄氏(現フォーラム代表)が1989年(平成1)に授業実践のための調査研究から地域の戦争遺跡保存を呼びかけ、市民規模の保存運動に広がったものです。2004年(平成16)には南房総文化財・戦跡保存活用フォーラムとしてNPO法人化され、以来、この地域に散在する多くの歴史文化遺産の保存に携わってきました。
なお、当学会ではこれまで4回の戦争遺跡を訪問する遠足を実施しました。第4回晩秋の遠足「戦争遺跡・松代大本営跡をたずねる」(2003年11月)、第20回浅春の遠足「市ヶ谷台から九段下まで——『戦争の記憶』に関わる3つの場所」(2007年3月)、第36回風薫る遠足「慶應義塾大学日吉キャンパス旧帝国海軍連合艦隊司令部跡を歩く」(2010年3月)、第38回潮風に吹かれる遠足「軍港横須賀をめぐる」(2010年7月)がそれです。今回の遠足によって、帝都防衛の要として構想された南房総と三浦半島の両地域の訪問を終えますが、今回はとくにアクアラインを経由して現地へバス移動するので、入口が狭く懐が深い東京湾の地理的特性も実感できます。
2.行程
8:10 集合(東京駅丸ビル北側脇)
8:30 東京発
首都高川崎浮島JCT→アクアライン海ほたるPA→木更津JCT→館山道→富浦IC→館山バイパス
11:00 休暇村館山(館山市見物725)着
11:00〜12:45 座学(休暇村館山1Fホール)
12:45〜13:15 昼食(休暇村館山1Fレストラン)
13:15 休暇村館山発
戦跡見学:赤山地下壕跡→一二八高地戦闘指揮所・作戦室地下壕跡→噫従軍慰安婦碑→洲ノ埼海軍航空隊射撃場跡→掩体壕→米占領軍上陸地点
17:30 鷹ノ島公園前(館山市宮城)発
館山バイパス→富浦IC→館山道富楽里PA→木更津JCT→アクアライン→首都高川崎浮島JCT
20:20 東京着(東京駅丸ビル北側脇)、解散
3.遠足の報告
遠足当日は天候に恵まれたため、アクアライン、一般道とも交通量が多く到着が30分ほど遅れた。途中の海ほたるパーキングエリアでは東京湾の眺望を楽しむことができた。到着後に会場の休暇村館山で行われたNPO法人安房文化遺産フォーラムの代表愛沢伸雄氏と同事務局長池田恵美子氏による座学では、フォーラムの歴史と活動概要を中心に、活動の出発点の一つになった安房里見氏居城稲村城跡(15世紀)の保存活動から、赤山地下壕など一連の戦争遺跡発見と保存までの経緯、婦人保護施設「かにた婦人の村」を創設した深津文雄牧師との交流、房総半島南部に突き出た安房の歴史地理的特性まで、多岐にわたる内容の講義を受けた。
昼食後は、館山市宮城地区の海上自衛隊館山航空基地の北側山腹の南向き斜面にある赤山地下壕跡をはじめ、愛沢氏とフォーラム会員でガイドスタッフの小沢義宣氏による現地説明を受けながら半径1.2キロほどの地域に点在する戦争遺跡6か所を訪問した。赤山地下壕跡の見学後は西にバス移動して山腹に点在する「かにた婦人の村」の敷地内にある戦闘指揮所・作戦室地下壕跡と山頂の噫従軍慰安婦碑を見学し、徒歩で山を下って洲ノ埼(すのさき)海軍航空隊射撃場跡を見学。バスで最初の赤山の裏手に戻り、この地区で唯一残る戦闘機用掩体壕(えんたいごう)を見学。最後にバス移動で館山航空基地北東隅に位置する鷹ノ島公園前の館山湾に面した米占領軍上陸地点を見学した(見学した戦跡の詳細は次項「訪問先概要」を参照)。
同公園前でフォーラムの愛沢氏、池田氏、小沢氏と別れ、当初の予定時刻にバスで出発。アクアライン渋滞のため予定より50分ほど遅れたが、朝出発したのと同じ東京駅丸ビル横に一同無事到着した。解散後はJR東京駅構内のニュートーキョーで恒例の懇親会を開催。14名の参加があった。今回は移動に中型貸切バスを使用しアクアラインを利用したため費用はかかったが、鉄道による移動に比べ大幅な時間の短縮ができ快適な小旅行を満喫できた。
4.訪問先概要
※『戦争遺跡:南房総に戦争の傷跡をみる』南房総文化財・戦跡保存活用フォーラム、2004、参照
1)赤山地下壕跡
現在の海上自衛隊館山基地の南側に位置する通称「赤山」に建設された地下壕跡。凝灰岩質砂岩の標高約60メートルの小山には、現在、総延長約2キロの地下壕と巨大な燃料タンク跡が残るだけだが、ツルハシで穿った地下通路は天井が高く、曲がりくねった通路の様子から工事作業にトロッコの使われた形跡がなく、戦争末期に急造したものとは思われず、海軍館山航空隊の発足時に構想され、航空隊基地とほぼ同じく1930年代に時間をかけて整備されたものと考えられる。関連資料がないため当初の様子は不明だが、航空機の開発実験施設、長距離無線通信施設など機密性の高い施設や、野戦病院、兵舎、発電所、航空機部品や兵器の格納・貯蔵庫などを含む基地機能をもち、海上や空中からの攻撃を避けるための航空隊基地の代替施設だったと推定される。なお、当遺跡は現在館山市が所有・管理しており、同市へ申請して見学ができる。
2)一二八高地戦闘指揮所・作戦室地下壕跡
「かにた婦人の村」の敷地内、射撃場跡の西側近隣の小山を穿ち、戦争末期に急造された地下壕。作戦室入口、戦闘指揮所入口上のコンクリート壁に埋め込まれた石製額に彫り出された文字「戦闘指揮所/昭和十九年十二月竣工/中島分隊/義治書/忠信作」「作戦室(以下同じ)」が読め、1944年12月に竣工したことがわかるが「中島分隊」「忠信」については未詳。1944年7月に発令された「本土沿岸築城実施要綱」を承けた本土決戦用の軍事施設として建設された。作戦室に隣接した小部屋のコンクリートの天井に龍をモチーフにしたレリーフがある。なお、この遺跡は施設の敷地内にあるため一般公開していない。
3)噫従軍慰安婦碑
1986年建立。1965年、深津文雄牧師により婦人保護施設「かにた婦人の村」が創設されたが、寮生の一女性が自らの従軍慰安婦体験を告白。1985年に山上に1本の檜の柱が立てられ、次いで翌年にこの告白(「石のさけび」)を承けて石碑が建立された。韓国KBSのテレビ番組でも取り上げられた。
4)洲ノ埼海軍航空隊射撃場跡
館山海軍航空隊(館空)に隣接する現在の洲崎地区にあった洲ノ埼海軍航空隊(洲ノ空)の施設で唯一残る遺跡。戦闘機登載機銃の試射を行う施設で、崖下に穿たれた巨大な洞穴5基が現存する。外壁を煉瓦で内部をコンクリートで覆った壁面には無数の弾痕が残る。「洲ノ空」は1943年、航空兵器整備訓練と人材養成のために開隊された全国唯一の基地施設。若干の写真のほか当時の資料はないが、全国から実戦経験者や理工系学生が集められ、一時は1万数千人が訓練を受けていたという。
5)戦闘機用掩体壕
赤山地下壕の裏手に建設された戦闘機用の格納庫。傾斜地を利用した平たいカマボコ型のコンクリート製格納庫で、空襲の被害を避けるため、上部を土盛りして草木を生やし巧みなカモフラージュが施された。大戦末期、近隣住民を動員して赤山周辺で十数基の掩体壕が作られたというが、残るのはこの1基のみ。現在は元の床位置から1メートルほどの高さまで土が堆積しているが、木製の型枠に鉄筋を組みコンクリートを流して比較的丁寧に作られた天上と壁面はよく残っている。掩体壕は通称で正しくは掩体という。
6)米占領軍上陸地点
1945年9月2日に米国戦艦ミズーリ号艦上で降伏文書調印式が行われた翌日、9月3日に米国陸軍第8軍と第11軍3,500名が上陸用舟艇で上陸した地点。館山市宮城地区にある海上自衛隊館山基地北東角の鷹ノ島公園前、造船所に隣接する場所。当時の写真によると水上航空機を収容する基地施設の一つで、現在も軽度の傾斜がつけられて海に向かって平らに延びるコンクリート製の巨大な土台が部分的に残る。館山一帯では上陸後4日間だけだが、沖縄を除く本土で唯一、連合軍による「直接軍政」が行われた。『裸者と死者』(1948)で知られる作家ノーマン・メイラー(1923〜2007)も終戦後、一兵士として館山に上陸したと証言している。