第46回 春の海の遠足 「東京海洋大学に重要文化財「明治丸」を訪ねる」
日程
- 2012年4月28日(土)
案内人
- 松隈 章(竹中工務店・ギャラリーA4)
解説者
- 松下 修(東京海洋大学海洋工学部教授、明治丸海事ミュージアム館長)、庄司邦昭(国土交通省運輸安全委員会、 元東京海洋大学海洋工学部教授)、海老名熱実(日本郵船歴史博物館学芸員、会員)
文化資源学会の 2012 年春の遠足は、東京都江東区に、重要文化財であり日本で唯一の鉄船とも言われる「明治丸」を中心に東京海洋大学(旧東京商船大学)を訪ねます。
現在、東京海洋大学(旧東京商船大学)の構内に保存されている明治丸は、明治 7(1874) 年にイギリスで建造された日本で唯一残る「鉄船」であり、「船舶で最初に指定を受けた国の重要文化財」です。
明治丸は、当時としては、とても速い船で、明治 8(1875)年、小笠原諸島がどの国の領土になるのかという問題が発生した時に、明治丸がいち早く小笠原諸島に到着し、日本政府調査団が調査を行いました。それ以来、小笠原諸島が日本の領土となり、昨年、世界自然遺産に登録されています。つまり、明治丸到着の事実が無ければ、小笠原諸島が日本の領土になることも、そして、日本の世界自然遺産になることもなかったのです。
明治天皇が、明治 9(1876)年、東北・北海道を巡幸された時、函館で乗船になり、横浜に 7 月 20 日に帰港しています。それを記念して後年その日を「海の記念日」と制定、 現在の「海の日」となっているのです。
燈台視察船として活躍した明治丸は、明治 29(1896)年には役目を終え、東京海洋大学 (当時の商船学校)に譲渡され、以後、昭和 20(1945)年まで係留練習帆船として使われてきました。昭和 50(1975)年頃までは結索実習などに船内が使われ、昭和 53 (1978)年船舶として初めて国の重要文化財に指定。昭和 63(1988)年に保存修理 工事を終え、平成 21(2009)年まで一般公開されていましたが、傷みが激しく現在は公開を中止しています。東京海洋大学では、修復事業等の費用に充てるため「明治丸海事ミュージアム事業募金」を設置し募金を呼びかけています。 今回は、普段は公開していない「明治丸」の船内見学会も特別に見学させて頂きます。
行程
13:30 東京海洋大学百周年記念資料館(越中島キャンパス)集合
13:30-14:00 明治丸海事ミュージアム
◆挨拶 松下 修(東京海洋大学海洋工学部教授・明治丸海事ミュージアム館長)
◆解説 「重要文化財「明治丸」概要(仮題)」 庄司邦昭(国土交通省運輸安全委員会・ 元東京海洋大学海洋工学部教授)
14:00-16:00 見学「明治丸」「明治丸海事ミュージアム」 「東京海洋大学歴史的建造物」 (3班にわかれる)
16:00-17:00 明治丸海事ミュージアム
◆講演 「洋上のインテリア-忘れられた建築との交差(仮題)」海老名熱実(日本郵船歴史博物館学芸員)
17:00 解散
「東京海洋大学に重要文化財「明治丸」を訪ねる」報告記事池田雅則
今回の遠足はゴールデンウイーク入りの爽やかな午後の青空の下、約3時間半に渡って東京海洋大学越中島キャンパスで行われた。まず旧東京商船大学開学100周年を記念して 1978年に開館した、白亜のモダンな百周年記念資料館に参加者は集合した。こちらで松下 修氏(東京海洋大学海洋工学部教授・明治丸海事ミュージアム館長)よりご挨拶いただいた後、庄司邦昭氏(国土交通省運輸安全委員会・元東京海洋大学海洋工学部教授)より、 明治の海洋国家日本で重要な役割を果たした後、昭和の終戦まで商船学校生の係留練習帆 船として活躍した明治丸および百周年記念資料館から構成される明治丸海事ミュージアムについての解説がなされた。
この後参加者は、会員の松隈章氏の案内で「百周年記念資料館」「明治丸」「キャンパス内の歴史的建造物」を巡った。百周年記念資料館は1・2階に展示室が設けられて、1階 展示室は機関学関係で、船を動かすための機械・模型が展示されている。蒸気タービン、内燃機関、補助機械や機構学模型など学生が実験実習用の授業に使用したものが展示され、 一部の展示機械は実際に手で動かすことができ、参加者も興味深くそのメカニズムに接した。2回展示室は航海学関係で、船の航海に必要な機器・装置および船舶模型が展示されていた。
明治丸は現在傷みが激しく船内の一般公開は中止しているため、今回の船内見学は貴重な機会となった。構内の一角に陸上固定化された明治丸に、船体後部に接して設置された階段を登って船上に乗り込む。上甲板後部のデッキハウスより階段を下りると主甲板に通じる。主甲板の右舷中央後方に明治天皇御座所があり、公室、ベッドルーム、バスルームと三室続きとなっている。公室の壁には板絵が飾られているが、戦後進駐軍に接収された時に塗られたペンキを丹念に落として復元されたものという。主甲板の後部はサロンになっており、重厚なマホガニーのテーブル、細かい装飾で飾られた大鏡など、在りし日のロイヤルヨットをしのばせる。上甲板の船上に立って東京湾側を眺めると、晴海運河を挟んで佃島界隈の高層ビル群がそびえ立っている。明治丸の来し方に感慨を禁じざるを得ない。 この点については後段で補足したい。
キャンパス内の歴史的建造物としては、第一・第二観測所、一号館などを巡った。1903年に建設され赤道儀室と呼ばれていた第一観測所は、航海天文学の研究と教授用などに使われた。輸入煉瓦を用いた八角形二階建ての造りで、屋根は半円形ドームになっており、内部には当時最新鋭の東洋一といわれた7インチ望遠鏡が備えられていたとのことで、今の東京の夜空とは比べられない程の星々を見ることができたのではと羨ましく思える。第二観測所も第一観測所と同じ年に建設され、子午儀室と呼ばれていた。こちらは輸入煉瓦を用いた八角形平屋建ての造りである。両観測所の建物とも1997年に国の登録有形文化財に指定された。現在の一号館は関東大震災によって消失した木造校舎の跡地に1932年に建てられた。航海船橋を模してデザインされた鉄筋コンクリート造りで、概観は装飾テラコッタで飾られている。この一号館も1997年に登録有形文化財に指定されている。
以上それぞれの見学を終えた後、一号館の教室を会場にして、会員で日本郵船歴史博物館学芸員の海老名熱実氏より、「洋上のインテリア/忘れられた建築との交流」と題して 約1時間の講演が行われた。1900〜1940年代の豪華客船時代を中心に客船インテリアの歴史について、1880年代〜1900年頃の船体船内ともに外国依存から、まず船体の国内建造が進み、そののち1937年頃より船内インテリアも含めて、外国依存から脱却して「現代日本様式」が確立されていった状況が説明された。この講演で最も気づかされた点は、豪華客船時代までの船は、海外への唯一の移動手段であり、国力の指標でもあったとの指摘だった。船体は最新鋭の科学技術の成果であり、船内は歴史・文化・芸術の場であり、船は海外の目に触れる「動く国土」として、国威発揚の道具として機能していた。
この海老名氏の教示を踏まえて、明治丸の辿った歩みを考えたい。1874年日本政府の発注で英国グラスゴーで建造。1875年母港横浜到着。同年、小笠原諸島領有調査航海。1876年明治天皇東北・北海道巡幸で乗船、同年7月20日(海の日の由来)に横浜港帰着。1879年琉球王国・最後の国王・尚泰が琉球処分の際、乗船上京。1896年まで当時最優秀の灯台巡視船、ロイヤルヨットとして活躍。以後第一線を退き、商船学校の係留練習帆船となる。1923年関東大震災では避難民500〜600名を収容。1945年米軍接収。1964年陸上固定化。1978年重要文化財指定。このような140年近くの歴史をくぐり抜けてきたのが鉄製帆付き汽船「明治丸」である。 船尾や船首にはアカンサス(葉アザミ)の横帯文様が施されている。船内の明治天皇御座所の公室には、牡丹・木蓮・桃・桐などの植物画板絵が飾られていた。船外・船内のいたるところに植物をモチーフとした装飾があふれている。名もないアカンサス文様が船体を表象している。船が固定されている脇の植え込みには実際にアカンサスが植えられ、みずみずしい葉々が初夏の日差しに輝いている。
19世紀の大英帝国は産業革命による繁栄を謳歌した一方で、急速な近代化による精神的豊かさの喪失への不安が高まった。そのような状況に対し、日常の労働に創造の喜びを見出していた中世を理想とするラファエル前派の芸術革新運動が19世紀半ばに起こる。それに引続き生活と芸術を一致させようとするアーツ・アンド・クラフト運動がウイリアム・モリスらによって実践される。モリスは植物など自然からのモチーフを用い、有機的な生命力にあふれたフォルムを装飾美術に応用した。
アカンサスの装飾は、古代ギリシア文化の頃から、ローマ、ビザンティン、ロマネスク、ゴシック建築をへて、ルネサンス期と持続的に用いられてきた。そんなアカンサスが19世紀英国の産業芸術のモチーフとして、明治丸の船体を飾る。アカンサスは140年に及ぶ明治以来の日本人の歩みを見届けてきた。華麗なる天皇・皇族、国難に臨んだ要人から海の児として巣立った商船学校生、さらには災難を逃れた地元住民、娯楽場とした占領米軍兵まで、この船を舞台に繰り広げられてきた様々な人々の歴史をアカンサスは見た。
明治丸の存在は技術的、物理的な遺産に留まらない。それ以上にアカンサスひとつ取っても様々な人々がこの船に関わってきた物語をささやきかけてくる。そのようなじっと耳を傾ける価値を内包している。
講演会が終わって海洋大学キャンパス内を後にしたが、相生橋袂のキャンパス角に建つ明治天皇聖蹟記念碑を遠足最後に訪ねた。明治天皇が1870年に初めて越中島練兵場に訪れた際に「君が代」が初めて公式に演奏されたのを記念して、紀元2600年事業として1943年に建てられたという。太鼓とラッパをかたどった基礎がユニークな碑である。敷地は国有地ながら、記念碑は戦前に旧深川区町会連合会が建設、管理していたので、戦後同会が解散した後、管理者がはっきりせず荒れ放題になってしまったという。現在は江東区が維持管理しているが、公園などの条例化ができないままに法律の狭間に置かれている。謎めいた碑を最後に遠足をすべて終えて、希望者の一団は、門前仲町「一の屋」で開催の懇親会へと流れていった。
今回の遠足にご協力いただいた関係の皆様に心よりお礼を申し上げまして、報告を終わらせていただきます。