第45回 雪晴れの遠足 「「泉岳寺の近代」探訪 − 赤穂浪士引き揚げの道をたどりつつ」
日程
- 2011年12月17日(土)
案内人
- 山内直樹(編集者、吉良上野介役)
元禄15年(1702)12月15日の朝まだき、討ち入りを果たした赤穂の浪士一団が吉良上野介の首を白布に包み、槍・長刀に吊るして、泉岳寺への道を歩き始めます。上杉家からの追手を気にし、「首」を舟で運ぼうかと船頭を探せば、彼らの異様ないでたちゆえに逃げられ、その日はまた、大名たちが江戸城へ登城する日でもあったことから、道での面倒が生じないように、川べり、海近くの道を行くことにしました。史実に明らかなのは、永代橋を渡り霊岸島、鉄砲洲、浅野上屋敷や築地本願寺近くを通り、汐留橋から東海道に入って泉岳寺へ達する道です。夜が明けて、浪士たちが泉岳寺へ着くころには「快挙」を知った人たちがぞくぞくと後に続き、門前に押し寄せてきたといいます。早くもこのときから「義挙」が語られ、やがて「浪士」ではなく「義士」、あるいは「忠臣」と呼ばれるようになり、数知れずの物語がつくられてきました。 その道をたどりながらも、310年後の私たちが目指すのは、元禄時代の泉岳寺ではなく、幕末・明治の泉岳寺です。この大きな時代の節目にも「義士」ブームが起こり、四十七士の木像が少なくとも2セットつくられ、公開展示(開帳)されてきました。それらの一部は現存し、現代もなお「木像館」で見ることができます。東京に残るとても古いタイプの展示施設です。 また、第44回遠足の主人公である川上音二郎は明治24年(1891)に「首洗い井戸」を修復、同年12月13日、境内にて演劇を奉納しました。しかし、音二郎の没後、彼の銅像を境内に建立しようとした貞奴の企ては、社会的な非難を浴びて挫折します。芸人風情の銅像が義士の眠る聖地に建つことは許されなかったのです。それでも芸人たちが泉岳寺に引き寄せられてきたことは、墓所へと至る道の玉垣に刻まれた往年の映画スターの名前からも明らかです。「泉岳寺の近代」を探りながら、「忠臣蔵の近代」についても考える遠足です。
行程
10:00 集合 吉良邸・回向院めぐり
10:30 出発
小憩 芭蕉記念館・越前堀公園
12:30 築地本願寺
昼食
13:30 出発
小憩 汐留・旧新橋停車場あたり
15:30 泉岳寺
義士記念館、木像館、赤穂義士墓所
17:00 解散
「泉岳寺の近代」探訪− 赤穂浪士引き揚げの道をたどりつつ報告山内直樹
「吉良の首のゆくえ」 忠臣蔵の道を歩きたいと知らされて、人より首ひとつ飛び出している案内人は、よろしゅうござんす、それでは槍の先に吊り下げられた「首」よろしく、それを目印に皆さんがついてこられるようご案内しましょうと、うっかり二つ返事で引き受けてしまった。それで調子に乗って吉良上野介の「首」になりすまし、12月14日に3日遅れの17日、寒風吹きすさぶなか、いまは「赤穂義士元禄義挙の跡」として都の史跡に指定されているわが邸前に32名を呼び集めたが、47人集まらなかったのはわが不徳の致すところ、人気のなさでもあった。やけになって、「首」自らが用意したレジュメを、案内人・吉良下野介とする。
いまは小さな本所松坂町公園だが、元のわが邸は芥川龍之介の出た小学校の手前から、のちに薪炭屋の塩原太助が店を構える道の近くまで、東京ドームのグラウンドにして6割強の大きさであった。その広大な敷地に建物が立て込んでいたのだから、連中も探すのが大変だったろう。どうも少し怪しいが、その時屋敷にいた者約150名、うち屋内で抵抗した者は約20名で、死亡した者は17名という数が残っている。怪しからんことに、近くで討ち入りを今か今かと待っていたのに羽倉斎(荷田春満)がいて、俳人其角も浪士のいく人かと親しく付き合っていたし、また「快挙」翌日には新井白石がわが邸の隣りの土屋邸をたずねて来た、といううわさもある。ずいぶんいろいろあるようだが、余分なことはもういいから、先を急がぬと上杉方が追って来るとうながされ、「首」は槍の先に高々と吊り下げられたのであった。 回向院を集合場所にしていたのに寺側が恐れて門を開けなかったため、仕方なく両国橋東詰に集まり、そこから亡き主君の墓前にわが「首」を供えんがため歩き始める。泉岳寺までの距離はおよそ12,3キロ。連中は急ぎ3時間弱で歩き通したが、こちらはのんびりしたもの。歩き始めてすぐに、朝稽古を終えた春日野部屋の相撲取りが道端でひなたぼっこしているのに出くわす。しばらくゆけば広重「大はしあたけの夕立」で知られる新大橋、そしてすぐに芭蕉記念館へ行き着く。芭蕉はこのあたりを3度ほど住み替えたのち大坂へ行って客死する。残念ながら、連中が意気揚々と家のあたりを通りすぎたとき、彼はもうこの世の人ではなかった。芭蕉庵からすぐの小名木川に架かる万年橋は広重、北斎の絵で名高いし、さらに隅田川沿いを下って行けば平賀源内電気実験地に出くわす。忠臣蔵の道もなんだか年代がめちゃくちゃになったが、高く掲げられた「首」は時代の先までお見通しなのだ。事件数年前の元禄11年(1698)に完成した永代橋を渡るが、当時はもう少し上流に架かっていた。ちなみに、永代橋までは隅田川の左岸沿いをほぼ一直線に下り、これから先はさほど遠くはない頃に埋め立てられた、海に近いところをゆくことになる。切られた「首」はようやく痛みもおさまって、首を長く伸ばし、すっかり変わった310年後の景色を楽しむ。
越前堀公園での小休止後、細かく次々に道を折れながら富士塚のある鉄砲洲稲荷神社に詣で、かつて築地居留地のあった明石町に入り、広大な聖路加病院あたりを巡る。ここはもと浅野内匠頭邸のあったところで、また芥川龍之介生誕地でもある。すなわち芥川は浅野邸跡で生まれて、吉良邸横の小学校へ通い、後年、「或日の大石内蔵之助」を書く。歩き始めて2時間半、ようやく築地本願寺へ着いて、しかし食い気のまさる連中は「首」の講釈などに耳を傾けず、一目散に築地場外市場の食堂めがけ散って行くのであった。
昼食後、築地から歩き始めて汐留橋の大きな歩道橋をぐるぐる廻り、新橋旧停車場横を通り過ぎ、ゆりかもめの駅を跨ぎ越して日テレへ出る。なんだか都会のビルの中を突っ切り、空中を歩いているような感じだ。 さて、ここからは旧東海道沿いを浜松町、田町方面に下ってゆく単調な道となる。そろそろ足が痛みだすころだが、泉岳寺の義士記念館に時間内に入らなければいけないので、少し歩くスピードを上げる。西郷・勝会見の地、芝口門のあった札ノ辻なんぞはもうどうでもよくなる。遅れる人は、並行して走る都営地下鉄に乗って泉岳寺へ先回りする。
泉岳寺にたどり着いたのは午後3時半。10時半に歩き始め、途中の昼食、小休止を除けば、歩いていた時間は4時間半ほどであった。
さて、「首」が泉岳寺にたどり着いたとき、門前はうわさを聞いた人たちであふれかえっていた。浅野内匠頭の墓前にささげられたわが「首」は連中とともに寺の衆寮へ通されるが、粥、酒をふるまわれていたとき誰だったかが、寺の用意した重箱に入れてあった「首」を取り出し皆に見せびらかして、それが終わるとストンと箱の中へ戻したのにはまいった。肴はいらぬ、これほどの肴があれば、などとぬかしおって。 用済みとなった「首」は寂しいものだ。15日の午後8時、皆は大目付の仙石邸へ呼び出されて行ったが、わが「首」はお構いなしとして寺に残された。翌日の夜分、「首の箱を渋紙で包んで細引でくくって、なかに棒を通して中間に荷わせ」、二人の寺僧によって吉良邸へ返される。そのとき、わが屋敷では裃つけた者から足軽中間まで3、40名ほどが地に這いつくばって迎えてくれたが、この連中、逃げ隠れして助かった者たちである。部屋からはすでに異臭がたちこめていて、寺僧にはずいぶん迷惑をかける。そんな折、「あのう、もう一つ首が足らないのだけれどご存知ないか」と聞くのであった。どうも事件のあと首のないのがもう一体あって、探しているらしい。小林平八郎のものかも知れない。
ところで、ここまでの歩きは助走のようなもので、今回の遠足は「泉岳寺の近代」が主なるテーマであった。 寛政時代、泉岳寺では曼荼羅開帳のとき義士の遺品を公開したり、また嘉永期には四十七士の木像が作られたりしたが、なにより明治元年、天皇が泉岳寺へ勅使を派遣したのが大きな事件だった。江戸時代、幕府は浪士たちがもてはやされるのを嫌ったが、明治にはその義挙が称賛され、その流れで明治2年には義士堂に四十七士の木像がつくられ、明治23年には義士遺物陳列場も完成する。いま、2階の義士木像館に四十七士の木像が並んでいるが、今回の案内人が半世紀前の幼少時代ここを訪れたとき、いまは陳列されていない1階に所狭しとゴチャゴチャ遺品が置かれていたのを覚えている。「義挙」300年に、新しい赤穂義士記念館ができたとき素性の定かでない、あいまいなものは除かれたのだろう。当然のこととはいえ、2階木像の昔風の展示の仕方を思うにつけ、1階部分の展示が消えたことは残念である。
一方、講談、軍談、浪曲など、また川上一座などによって舞台にも上げられ、義士銘々伝が語られてゆく。川上音二郎は泉岳寺の首洗い井戸を修復し、新劇場設立の紀年碑を建て、彼の死後には遺髪も葬られる。また桃中軒雲右衛門は大石内蔵助の銅像をつくり、のち人手に渡るものの大正10年、泉岳寺内にそれが建てられる。こうした一連の流れは赤穂事件が近代において、義挙、義士へと広くまつり上げられてゆく過程でもあった。
いやはや、それはそれとして、わが邸が赤穂「義士」の「義挙」跡とされて、わが名のないことを嘆くばかりだ。幸いにもこの遠足直前、学会員の有賀沙織さんが脚本を書いた「吉良きらきら」が深川江戸資料館で上演され少し溜飲を下げたが、大勢はいまだ変わりない。四十七士の墓に詣でたあと、高輪台に上って細川邸の大石内蔵助自刃跡を見て本日の見物を終了したが、吉良のことは口の端にも上ってこなかった。なお、討ち上げは三田駅前の水野監物邸跡にたつ居酒屋で行われたが、そこは赤穂「義士」9名の首がころがったところであった。
なお、「首」に関してつけ加えておきたいのは、牛込の萬昌院に葬られたわが骸、大正3年に寺が中野へ移転するとき首はまだしっかり胴体につながっていたそうである。縫い合わせたのは「南蛮」外科医の栗崎道有で、彼の墓もここにある。
赤穂事件より少し前の延宝8年(1680)、増上寺刃傷事件で永井尚長が内藤忠勝に殺され三田にあった功運寺へ葬られたが、戦後すぐその寺が中野へ移って萬昌院と合体し萬昌院功運寺となった。刃傷事件を起こした内藤忠勝の姉が赤穂藩主・浅野長友に嫁いでいて、浅野長矩すなわち内匠頭は二人のあいだに出来た子だから、叔父と甥がともに刃傷事件を起こしたことになる。やられた側の吉良と永井が墓域を同じにするというのも、妙な縁である。
さらにもうひとつ。駒込の染井墓地すぐ横の慈眼寺に芥川龍之介の墓があるが、首が見つからないとうわさされた小林平八郎の墓もここにあって、そのすぐ隣りが司馬江漢の墓。飯島虚心は北斎をこの小林平八郎の裔としたが、今では別人説が確かであるとはいえおもしろいことである。