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第42回 土用の遠足  「加賀藩上屋敷訪問」

日程

  • 2011年7月16日(土)

案内人

  • 堀内秀樹(東京大学埋蔵文化財調査室)
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東京大学は、明治維新のあと、加賀藩とその支藩である富山藩・大聖寺藩の江戸屋敷跡に建設されました。その大半を加賀藩上屋敷が占め、赤門や三四郎池がその名残であることはよく知られています。東京大学は、1983年に臨時遺跡調査室(現在の埋蔵文化財調査室)を開設して以来、30年近く、本郷キャンパスの発掘を営々と続けてきました。東京で、これほど徹底的に掘られた場所はほかにありません。かつての大名屋敷の跡に、大学がほぼそのまま存在しているがゆえに、発掘の成果は近世考古学という学問領域の開拓に大きく貢献しました。?? 今年の1月からは、工学部新3号館建築に伴う緊急発掘調査が行なわれています。これまでに縄文時代、平安時代、江戸時代、近代の遺構・遺物が出土しました。調査地点は、江戸時代には加賀藩上屋敷の縁辺部に位置し、藩士の居住施設、御殿庭園から流下する水路、藩邸から出た生活ゴミを廃棄したゴミ穴などが良好な状態で出土しています。
 この遠足では、まず教室でレクチャーを受け、加賀藩上屋敷の全体像を学んだあと、石垣や井戸などキャンパス内に残る屋敷の痕跡をたどり、最後に、旧3号館発掘現場を見学します。


「加賀藩上屋敷訪問」報告記事平岡厚子 HIRAOKA Atsuko

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 よく晴れた夏の土用目前の土曜日、遠足「加賀藩上屋敷訪問」は、現地である本郷の東大法文2号館の、幾らかひんやりした教室で始まった。東大埋蔵文化財 調査室の堀内秀樹先生のレクチャーによって、まずは、17世紀初頭からの加賀藩藩邸のレイアウトの変遷のポイントや、出土品の概要を学習。加賀藩の藩邸は、度々、大火に遭った事により、時期が特定される遺構が地下に層をなす遺跡となっているとの事。また、お馴染みの地上の赤門は、あって当然のものでは なく、徳川家斉の娘・溶姫の没後すぐに維新に遭遇したからこそ残ったのだそうだ。つまり、大名の屋敷の中の決まった使い道があるものは、それが終了すると直に壊され、また大普請をするという散財を繰り返すものだったのだが、将軍の娘のために造った赤門を取り壊す間もなく加賀藩の方が無くなってしまった という経緯があった。地下遺跡・埋蔵物の中にも、そのような事情で壊され埋もれているものがある。さらに、大所帯であった加賀藩藩邸に単身赴任していた藩士たちの暮しを彷彿とさせる、長屋関係の遺跡も御殿の周縁に広がっている。

 さて、いよいよ猛暑のキャンパスを、加賀藩上屋敷敷地の北方の藩士の長屋エリアにある法文2号館から、かつては囲いで隔てられた御殿の内にあった三四郎池へと降りていく。改修を重ねた加賀藩の誇る庭園・育徳園は、帝大になってからも縮小方向で変化し、その心字池は同様の位置にあるといっても水位が下がっているそうで、刈り込まれる事なく思うがままに繁茂した樹々の間から、かつての面影を想像することに困難を感じる。しかし、反時計回りに池の際の細道を行くと、加賀から参勤交代で江戸に向かう途中にあった親知らず子知らずを模した岩場の難所等があり、起伏に富んだ育徳園の趣向の一端を足で辿る遠足らしい体験となる。池を見渡す見事な景観があったであろう唐笠御亭跡地で、加賀藩の客人になったつもりの小休止をした後、キャンパス内のバス通りに降り て南下する。この道は、加賀藩の御殿エリアの東側にあった、詰人長屋の道として使われてきたもので、脇の地表には藩士たちが暮しに用いた井戸が小さな丸い蓋を被せられ現存している。汲み上げさえすれば、今も井戸の水を味わえるそうだ。次いで校外に出て、その長屋の外側にあたる塀の下部の石垣を観察しながら歩く。間隔を置いて、長屋の排水口の「ロ」の字形の石が混ざっている。数m離れて認められる小さな一対の穴は、側溝を渡るために東御門にあった石橋のホゾ穴。塀の基部には、長屋時代がそのままにあった。鉄門から再び校内に戻ると、 古九谷の磁器が出土した元・大聖寺藩の藩邸となる。医学部付属病院は、加賀藩の支藩である大聖寺藩・富山藩の藩邸の跡地全部に、周囲を少し足したところに建っている。

サンプルイメージ バス通りを、今度は北上し、御殿下グラウンドを望む。本郷キャンパスの本格的な発掘調査の嚆矢となったこの地点での成果も大きく、馬場のあった層の下 に、絵図の伝わる梅之御殿と対応する遺構が沢山確認されている。ここのトイレの遺跡では、御殿女中の落とした簪なども見つかったそうだ。グラウンド北東 の「角切り」も梅之御殿当時からのものとの事。一行は更に北上して長屋エリアに戻り西に折れ、ついに工学部3号館跡地の発掘現場に着いた。

 深い。掘り出された、明治時代の動物学地質学鉱物学教室校舎の煉瓦の礎石、1939年に建った工学部3号館のコンクリの円柱の礎石に、圧倒される。やがて目 が慣れ、その合間に、三四郎池からの流れの跡や、丁寧に掘り出された色の異なる土や木製の遺跡が見えてくる。ヘルメットを着用して、現場の周囲に廻らされた高所の足場や、下方の遺跡内に設けられた通路を、そろそろ歩きで見て回る。ここは加賀屋敷時代は、心字池から不忍池に抜ける流れの周辺に長屋がある、藩士の生活の場所だった。御殿のあった南側は本郷台地の突端といっても標高20m以上あるが、このエリアは東の谷に向かって下る地形の途中に位置し、 御殿より随分低い場所になっている。流れの近くにはゴミ捨て場が発見されている。興味深い文化資源ゴミ置き場が、掘り出されている。井戸もあり、スペー スが無い訳でも無さそうなのに、すぐ隣にトイレがある。長屋には地下室が設置されるのが普通だったそうで、そんな遺構も発掘されている。

サンプルイメージ 遺跡近くのプレファブでは、発掘品を見学した。平安時代の須恵器も含まれていたが、多くは江戸時代の長屋住まいの藩士の、様々な生活用品・貝などの食物残滓である。欠けた器の中に、完品の徳利が幾つもあった。私の気のせいに違いないが、遠足参加者たちの関心は殊に徳利に向かうようであった。使ってみたくなる趣が漂っているのである。何合入るだろうかとの評定が始まる。長屋のゴミ捨て場にあったからには、れっきとしたゴミであった筈なのに壊れていな い。酒屋の通い徳利であったとしたら、酒屋に返さないで捨ててあるとは妙な事ではないのだろうか。目の前にある徳利から、あれやこれやと、かつて藩士たちの暮しの息吹を感じ、きれいに資料として整理され本来の用途に還る事がないのが、残念に思えてくる。

 美術館に収蔵されている古九谷の大皿なども、まず滅多な事では食事に用いられることは、あるまい。考古学上の資料になっても、美術品になっても、ケース の中が定位置となる。といっても、一欠片となったの器の場合であると、埋蔵文化財であるならば考古学はそれ自体を完品と同様に重視しているように感じるが、筆者のフィールドとする美術では、科学的分析等の可能な参考品として関心を持っているという違いがありそうだ。重要美術品などになると、由緒の知られた伝世品といったものが中心におり、一旦、土に埋もれ火に遭ったもので美術品と認められているものには、余程の理由がある。近代国家日本が制度的に、 なにを財宝として保護したかったかという枠組みが、日本美術を規定していることが見えてくる。加賀藩の御殿では、火災に遭う度に、焼け跡をあまり片付けずに埋め立て土盛りして次の御殿の用地としために、積み重なった地層から種々のものが出土するという。御殿跡からの出土品は、大火の後ゆとり無く埋め込んだものなのか、大事なものは救った後のゴミなのか。美術品になるか考古学の発掘品になるかの運命の違いが、紙一重だったものもあるだろう。加賀藩上屋敷の中を登ったり降りたりした後で、出土品を眺めながら、そんなことも思った。

 ご案内下さった堀内先生、ご配慮下さった発掘現場の皆様、どうも有難うございました。


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