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第34回 冬めく遠足  「白樺の百年を歩く」

日程

  • 2009年11月21日(土)

案内人

  • 嶋田華子(白樺展企画者)
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本年は、武者小路実篤、志賀直哉らが創刊した文芸雑誌『白樺』の創刊100周年にあたります。
1910(明治43)年の創刊当時に、20代であった白樺同人は、大正期の個性を尊重する思潮を背景に、個人主義的な理想を追求し続け、関東大震災によって終刊するまでの14年間、毎月雑誌を発行し、その数は実に全160巻を数えます。『白樺』は文学にとどまらず、誌上に西洋美術の紹介記事や図版を掲載し、また展覧会を主催することを通じて、多くの西洋画家・彫刻家および作品を紹介しました。ゴッホ、セザンヌ、ロダンなどは『白樺』によって初めて本格的に紹介されました。
 本展覧会では、『白樺』掲載作品、主催展覧会出品作品を中心に、関連作品、白樺同人に関する資料など、約200点を「西洋美術への熱狂」「白樺派の画家たち」「理想と友情を求めて」の3部に分けて展示します。
 日本における西洋美術の受容を明らかにするのみならず、現代に生きる我々の西洋絵画に対する嗜好が、実は『白樺』によってリードされていることに気づかれることと思います。
 この他、当時の若者はなぜモノクロの図版でこれほど西洋美術に熱狂できたのか、展覧会の会場はどのように作っていたのか、同人の演劇や音楽会への関心など、様々な切り口で展示をご覧頂けます。
 また『白樺』全160巻が一堂に会し、そのデザインの多様さ、木版から写真製版まで、装丁の変化を見てとることもできます。表紙の『白樺』という文字に限っても、児島喜久雄、岸田劉生、富本憲吉らの同人の個性が表れ、グラフィックデザインとしても優れています。
 近代日本において、西洋美術の窓口として『白樺』というメディアが息づいていた、その全貌を明らかにする展覧会です。
 今回の案内人は本展企画者です。2006年に梅原龍三郎没後20年の展覧会を企画したことをきっかけに、梅原龍三郎の日本洋画壇におけるデビューを主催した『白樺』に興味を持ち、梅原展に白樺同人との交友を取り上げました。これを発展させる形で、「友情」と「西洋絵画の受容」をテーマに、白樺創刊100周年展を構想しました。展覧会実現に至る過程についても、お話します。


「白樺の百年を歩く」報告記事サラ・デュルト  Sara DURT (大原美術館)

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 鳶の鳴き声が海山に響く爽やかな秋晴れの2009年11月21日に実施された「第34回・冬めく遠足」では、山口蓬春記念館と『白樺』誕生100年「白樺派の愛した美術」展開催中の神奈川県立美術館・葉山を訪れ、後者では案内人の嶋田華子氏の発表もあった。 

 当初娘を連れての参加を予定していたが、午前中にも葉山で別件の用事があり、長時間親の都合につき合わせるのは酷だろうと、急遽代わりに私と同い年の友人を伴って参加したところ、1歳半に満たないはずの娘がずいぶん老成したものと目を細めてくださる参加者の方もいらっしゃり、恐縮いたしました。(参加者名簿に名前があったため、期待されていた諸氏のご期待に添えず、申し訳ありませんでした。)

 まず、山口蓬春記念館。 

 昭和23(1948)年から昭和46(1971)年に亡くなるまでの23年間、葉山の地で画業に勤しんだ山口蓬春の生前の住まいが財団法人JR東海生涯学習財団により平成3(1991)年から開館・運営されている。内部はかつての住宅の一部と分厚い壁の展示スペースと画室とで構成されており、とりわけ、友人であった建築家・吉田五十八の設計による蓬春の画室は当時のままの状態で保存されている。洋室にテーブルと椅子で日本画を描いた蓬春。流麗な線と色彩を用いて対象をはっきりと描き出した作品もさることながら、天井が高く直線的なデザインを採用し、シンプルな家具調度をしつらえたジャパニーズ・モダンな空間は、制作の場としてとても魅力的なものだった。個人的には、雨戸やガラス戸(窓枠や桟が細くガラス面を広く取ったもの)、雪見障子などといった建具が全て壁に納まってしまうところ、これらの建具を滑らせるために複数の溝があるためフレキシブルに窓面を構成できること、このたくさんの溝が邪魔になるどころか部屋の縁のアクセントにすらなっているところにとりわけ感銘を受けた。というのも、さらに輪をかけて個人的な話となって恐縮だが、葉山と同様に海を見下ろす神戸・塩屋の母のアトリエに、不用になり行き場を失った祖母の家の建具が吹き溜まっているのだが、その事態解消の糸口を見いだせた気がしたのである。とはいえそのためには、それらの造作を可能とする建築物自体が必要となってくるのだが・・・。

 続いて、神奈川県立近代美術館葉山のレクチャールームに場所を移して、同窓の嶋田華子氏の発表を聴いた。展覧会の企画段階から深く関わっている嶋田氏が、曾祖父でもある梅原龍三郎を切り口に、雑誌『白樺』への寄稿や白樺同人との交遊を中心に据えて幅広く論じたもので、丹念に準備された発表であった。

 またもや個人的な関心に引きつけるが、私自身現在の職場である大原美術館で、白樺の100年にあわせ2010年の元旦から「『白樺』と大原美術館」という小規模なテーマ展示を準備していたこともあり、嶋田氏とは梅原龍三郎が児島虎次郎の作品をパリのサロンで目にしたことについて「サロンの画は年々益々悪くなる。今年のソシエテ・ナショナールなど殊に酷い。児島君の画が出て居るが中ではいい方かも知れん。」(『白樺』第4巻第6号(1913(T2)年6月)梅原良三郎「花市の河岸より」p.142)と報告していることなど、事前に情報交換していたりしたこともあり、興味深く聴講した。 
レクチャー後、やはり同窓の加藤育子氏のおめでた姿を目にするサプライズもあり、共に修士の学生だった2003年に新設された葉山館が歴史を刻んでいるのと同様、私たちも着実に年を重ねていることが感慨深かった。
さて、展覧会自体は、ひろしま美術館でも一度見ていたが、展示スペースのちがいなどとあわせて、二度目も十分に楽しめ、かつ新しい発見のあるものだった。『白樺』で紹介された美術から、同人や影響を受けた人達の作品、『白樺』自体の装丁や開催した展覧会まで広くとりあげた目配りの利いたもので、新出の作品もあり、資料的な面でも学ぶところが多かった。

 展覧会を見終わって、外に出て、海に沈む夕日を眺めながら友人と話していたところ、近くにこられて「海を見ている方がいいなぁ」とのたまった参加者の方がおられた。お名前はご本人の名誉のために(?)ここでは口をつぐんでおくことにしたい。

 もう一点特筆しておくなら、展覧会カタログの巻末の『白樺』掲載図版のデータや美術関連記事を綿密に調べ上げた労は、大いに活用することによって報われねばならないだろう。実際、筆者は『白樺』が男性の後ろ向き裸体の特集を組んでいたことをこの巻末リストで知り、大原美術館の展示においては、セザンヌの男性後ろ向き裸体デッサンの横に、『白樺』からの引用:「今度の挿画は男の裸体の後ろ向きで自分達の好きな画でまだ日本の雑誌などにのつたことのないと思ふ画ばかり選んだ。発売禁止が怖いのと、不平なのとでわざと、男の裸の殊に後ろ向きばかり選んだのだ。之ならば発売禁止にしたくも出来まい。」(無車(=武者小路実篤)「編集室にて」(『白樺』第4巻第8号)1913(T2)年8月)を掲示した。

 ちなみに件の「海を見ている方がいい」とのたまった方が、後日、某美術雑誌上で「日本の近現代彫刻の男性裸体表現の研究」という興味深い論を展開しておられたので、『白樺』が、大正2(1913)年にモーリス・ドニ特集で女性裸体像を掲載したかどで発禁処分になったこと受けて「男の後ろ向きの裸體」の特集を組んでいることを遅ればせながらお知らせしたところ、「その記事は見逃していました」とのこと。はて、海と若衆の股間ばかり見ているのもいかがなものか、と。


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