第33回 天高く馬肥ゆる秋の遠足 「金太郎伝説地を歩く−金時山登山」
日程
- 2009年11月3日(土)
案内人
- 太田由紀(国立公文書館、元坂田金時)
金時山に連なる一帯は通称「足柄山」と呼ばれ、その周辺には金太郎伝説が点在しています。金太郎は、平安時代に活躍した武将源頼光の家来衆(頼光四天王とも称す)の一人、坂田金時の幼名です。私たちがよく知る金太郎といえばおそらく、おかっぱ頭に赤い腹掛け、鉞をかつぎ、足柄山で熊と相撲を執る、気は優しく力持ちの童子ではないでしょうか。
実はこの金太郎の姿は、江戸中期以降の近世社会が生み出したイメージに多くを負っています。江戸初期に、土蜘蛛退治や大江山の酒呑童子退治に代表される頼光らの妖怪退治は、世を乱す反逆者を平定する武勇談として、幕府、庶民に歓迎されます。中世から江戸初期頃までは、金時の勇猛な武者ぶりは語られていたものの、その出生や幼少期がクローズアップされたことはありません。そうしたイメージに変化の兆しが現れはじめるのは1660年頃のことです。金時の息子として創作された豪勇無双の金平(きんぴら)を中心に、頼光四天王の子らが勇敢に謀反者を征伐する姿を物語る和泉太夫の金平浄瑠璃が一世を風靡します。この怪力金平の人気に後押しされるように、その親である金時が再評価され、山姥の子として生まれたという怪奇性のある金時出生譚が広まってゆくのです。幼年期の金時には、金平のイメージも重ねられています。1690年頃の『前太平記』から1712年の近松門左衛門『嫗(こもち)山姥』、1751年の赤本『きんときおさなだち』、1790年頃の浮世絵へと時代が下るに従い、金時の幼名も快童丸、金太郎、怪童丸と記され、次第に私たちの知る金太郎像が形成されていきました。
あまたある各地の金太郎伝説の中でも「足柄山の金太郎」が最もよく知られているのは、江戸時代における関連文学、浮世絵、歌舞伎や浄瑠璃の流行、明治唱歌「金太郎」の普及によるところが大きいといわれています。今回の遠足では、金太郎が遊び育った金時山、動物たちと相撲を執ったといわれるその山頂、金太郎にまつわる巨岩「宿り石」、公時神社などをたずね歩き、足柄山に伝わる金太郎伝説を探ります。
なお本遠足は、神田祭附祭復元プロジェクトのお礼参りを兼ねています。ご記憶に新しいことと存じますが、今年5月に本学会は神田祭附祭「大江山凱陣」を復活させました。その折、坂田金時に扮したのが今回の案内人です。案内人は神田祭に先立ち、行列成功祈願のため金時山に登りました。元金時と一緒に仲秋の金時山をめぐりませんか。
「金太郎伝説の地を歩く- 金時山登山」報告記事河村賢文 KAWAMURA Takafumi (文化資源学会員)
今年5月、神田祭附祭り復元プロジェクト「第31回神田祭附祭りの遠足 江戸を歩こう」に参加し、日本橋三越前付近から秋葉原を通り神田明神まで、「大江山凱陣」行列の写真を撮りながら歩いた。
何も知らずに付いて歩いていたのだが、「大江山凱陣」とは大江山に住みつき悪行の限りを尽くす鬼「酒呑童子」を源頼光率いる四天王が成敗し、その首を携え京の都へ凱旋する場面を描いた、江戸時代には人気の練り物だったらしい。
さて今回の遠足「金太郎伝説地を歩く−金時山登山」は「大江山凱陣」頼光四天王の一人、「坂田金時」の扮装をした太田由紀さんに金時=金太郎の故郷、金時山を案内していただく趣向である。
当初遠足は、10月3日開催の予定であったが悪天候のため11月3日に延期となり、登山前夜には箱根付近に初雪が降るほどの急激な冷え込みだった。
参加者は神田祭の役柄で勝手に名前をつけさせていただくと、案内人坂田金時・象使い会長・藤原保昌・竹筒・獅子舞2名・花笠町人・沿道応援・カメラ係、以上9名の小編隊で山へ挑んだ。
集合は箱根登山鉄道 箱根湯本駅、駅から30分ほどバスに揺られ、金時登山口で下車、そこから徒歩で山頂を目指す。
金時登山口が海抜662.8m、山頂が1213mなので約550mの高さを一時間半かけて登ることとなる、ちなみに垂直移動のため比較にはならないが、第28回亜熱帯の遠足で訪れた世界最高層のビル「台北101」が510m、エレベーターで展望台まで37秒だ。
金時登山口バス停から10分ほど両側別荘の建つ舗装された道を歩き、案内に従い、箱根竹の鬱蒼と茂った暗い林へ入る横道を上ってゆく。この暗く曲がりくねった雑木林の道を30分ほど登ってゆく、この30分で筆者「カメラ係」はすでに息が上がっていたのだが、後ろを歩いていた「竹筒」氏を筆頭に女性陣はにぎやかにおしゃべりしているらしく、姿は見えないが、笑い声が聞こえて来る。
まだ午前中だが早くも山を下ってくる人々とすれ違うたびに挨拶を交わす。特に「沿道応援」氏は下山してくる少し年配の女性に、「若いですね。」と声を掛けたところ先方が異常なほどの喜びぶりを見せた事を面白がり、積極的に女性に声をかけている。雑木林を抜けると少し開けた広場があり、この広場から先は丈の低い植物へと植生が変わるため、視界が開け、登ってゆくごとに眼下に仙石原のススキの野原や芦ノ湖が見えとても気持ちがいい。
山頂までの最後の30分は険しい斜面を木の根に捉まりながら登ってゆく箇所が数カ所、懸命に登っていると、涼しい顔をした子供に追い抜かされてゆく。
11時30分ほぼ予定通り山頂へ到着、晴天で遮る物無く真正面に富士山が見える。山頂には金太郎茶屋と金時娘茶屋の2軒の茶屋があり同じような商品を売っている。登山客でごった返す中、9名が座れる場所を確保し「坂田金子」持参のピクニックシートに一同座り富士山を眺めながら昼食。食後「坂田金子」氏が数枚の白地図を貼り合わせたオリジナル地図を広げルートの説明。
12時40分下山開始、一時間ほど下り、雨で地表が流され根が露出した針葉樹林を通り「金時宿り石」へ、身長の4倍はあろうかと思われる丸い巨岩が金太郎のマサカリにより真っ二つに割られたかの様である。「坂田金子」氏の説明によると金太郎と山姥が風雨をしのいだとされる岩で、昭和6年2月24日突然2つに割れたそうだ。
このあたりから一同はオプションであるはずの温泉を目指し足が速まる。
「金時宿り石」の三分の一ほどの大きさの石上に有る「金時神社奥の院」の石祠と、「金時宿り石」が割れた翌年から奉納されるようになったマサカリを見て、金太郎が鞠として遊んだ「手鞠石」を通り、14時15分、金時神社に到着。
戦後立替えられた社殿にてしばし休憩の後、国道138号沿いを歩き仙石バス停から箱根湯本駅経由で無事温泉へもつかることが出来た。
文化資源の遠足では異例な文字通りリュックを背負っての「遠足」であったが、いつもと違う視点で自然の中を探索する貴重な機会を与えてくださった太田由紀さん並びに文化資源学会に感謝しつつ帰路についた。
私個人の話では有るが、しっかり箱根の湯には浸かったものの、帰宅後日ごろの運動不足がたたり二三日、足に違和感を覚える。端午の節句には、健やかな成長を「金太郎人形」を飾り願うものだが、金太郎の育った地を訪れ、「あまり健やかに育っていなかったのでは?」との反省を促す遠足ともなった。