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第24回 北風の遠足  「横浜本牧を歩く〜三渓園と八聖殿」

日程

  • 2007年12月15日(土)

案内人

  • 鈴木廣之(東京学芸大学)、木下直之(東京大学)
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 横浜の豪商原富太郎(三渓)が各地より由緒ある古建物を移築して明治39年(1906)に本牧村に開いた三渓園は、一般に公開され、庭園であるばかりでなく、一種の建築博物館としての歴史を重ね、昨年は開館百周年を迎えました。平成元年(1989)には、園内に三渓記念館を開設し、有数の美術コレクターでもあった原三渓ゆかりの美術展を開催してきました。併せて、同館には、臨春閣(紀州徳川家の夏の別荘巌出御殿と推定、重要文化財)の障壁画が保管展示されています。かつて東京国立文化財研究所が障壁画の調査を行っており、その時のメンバーのひとりであった鈴木廣之氏に案内していただきます。

 一方の八聖殿は、三渓園の蔭に回って忘れられた存在となっています。熊本出身の政治家安達謙蔵が、国民精神教育の殿堂として、昭和8年(1933)に私財を投じて建設しました。「八聖」とは歴史上の8人の聖人で、釈迦、孔子、ソクラテス、キリスト、聖徳太子、弘法大師、親鸞、日蓮のこと、それぞれの等身大の肖像彫刻を当代の彫刻家8人に制作依頼しました。その後、横浜市に寄贈されましたが、市は八聖殿のまま管理するわけにはいかず、現在は横浜市八聖殿郷土資料館といういささか奇妙な扱いを受け、聖人の前には漁具や農具が展示されています。ちなみに、安達は郷里熊本にも三賢堂を建設、こちらも熊本市の管理下にあります。

 今回の遠足では、横浜の名勝地本牧に建設されたふたつの文化施設の歩みを振り返るとともに、明暗を分けたその現状を見学します。見る影もなく埋め立てられてしまった本牧海岸もまた、日本の高度経済成長期について考えるよすがとなるでしょう。(木下直之)


北風の遠足「横浜本牧を歩く〜三渓園と八聖殿」に参加して森本デュルト沙羅セシル DURT Sara(東京大学大学院)

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 2007年12月15日に実施された「第24回・北風の遠足」では、横浜の本牧海岸沿いのいずれも数字を冠した二つの施設、八聖殿と三渓園を巡った。

 12時30分にJR根岸駅に集合後、タクシーに分乗して移動。はじめに訪れたのが、横浜市八聖殿郷土資料館。「八聖」と聞いて、何のことだかすぐにピンと来る人は決して多くないのではないだろうか。「八聖」をグーグルで検索したところ、トップに出てくる「横浜市八聖殿郷土資料館」(http://www.rekihaku.city.yokohama.jp/shisetsu/hasei/has02.html)の「施設の特色」を述べた部分には「また、展示室奥には、八聖像がおかれ、建物の名前の由来となっています。」とあるのみで、八聖とは誰でどのような意図の下に造られたものであるのかについては全く説明がない。「建物の名前の由来」というのも、本来八聖を祀る建物であるから当然といえるのに、これではまるで堂々巡りに陥りそうな解説である。

 八聖殿は、法隆寺夢殿を模した三層楼八角形の建物で、熊本県出身の政治家で逓信・内務大臣を歴任した安達謙蔵(1864〜1948)が建立し、1933(昭和8)年に完成。八聖とは、歴史上の8人の聖人を指し、釈迦、孔子、ソクラテス、キリスト、聖徳太子、弘法大師、親鸞、日蓮のことで、それぞれの等身大の肖像彫刻が朝倉文夫をはじめとする当代の8人の彫刻家に依頼制作され、納められた。1937(昭和12)年、八聖殿は横浜市に寄贈され、1973(昭和48)年「横浜市八聖殿郷土資料館」と改名され、市民に郷土の歴史を伝える資料館として現在に至っている。

 内部は八角形のプランで、一階の照明器具や草花文の装飾などのディテールは凝ったものだが、ランプの柄に網がぶらさがっていたり、マントルピースの前にキス網が垂れさがっていたり、一部カスタマイズ(?)も見られるものの、展示施設に不向きである印象は否めない。所狭しと漁具の並ぶ室内で学芸員の方から、高所の古写真を塩ビパイプで指示しながらのダイナミックな解説をいただいた。そのあと目の当たりにすることになる埋立地の現在の風景とは似ても似つかない本牧海岸のかつての姿を伝える古写真もさることながら、個人的には、漁具の展示に添えられた色画用紙の切り紙細工の魚類の精巧さに目を奪われた。

サンプルイメージ 二階へ移動すると、さらに驚くべきことに、八聖の鎮座する左側には、部分的に移築された民家の軒がせり出し、今度は農業関連の陳列が展開されている。神鏡を中央に左右四体づつ並んだ八聖像が不思議な荘厳空間を作り出しているのが、屋内とも屋外ともつかない別の空間に組み込まれ、まるで、異次元に迷い込んだような印象すら受ける。

 1932(昭和7)年7月付けの「八聖殿建立趣意書」によると、安達謙蔵の意図したのは、これらの聖像を殿堂に安置することにより、「世界の信仰を一小堂裏に集約して、その偉大なる精神的事業、広大無辺の徳化を追慕讃仰し、(中略)現世に処する生ける教養の道場たらしめんとする」ことであった。安達は自身の死後、八聖殿を横浜市に寄付し、「この寄付を受納したる市は必ずや私の志を継承するものをして永久に管理せしむるものであろうと信じます。かくて私の精神を後昆に伝えたい」と述べているが、現在の施設がこの精神を受け継いでいるとは言いがたいようだ。

 八聖殿を後にして、片側に往時の名残を留めつつも部分的に崩落防止処置を施された岩壁、片側にコンビナートのパイプや煙突を臨みながら本牧臨海公園を抜け、本牧市民公園を経て、1989年に造られた上海横浜友好園を通り、南門から三渓園に入園。

 横浜を代表する観光名所、昨年2月には「国指定名勝」にも指定された三渓園。生糸貿易により財を成した実業家原三溪により1906(明治39)年に公開された、面積175,000uの園内には、京都や鎌倉などから移築された歴史的建造物(国指定重文10、横浜市指定有形文化財3)が配置される。数ある移築物の一つ、臨春閣の障壁画の調査に関わった東京学芸大学の鈴木廣之先生よりご説明いただいたあと、園内に点在する各種の建物を見学した。
八聖殿と同様、1953(昭和28)年原家より横浜市に寄贈され、こちらは財団法人三渓園保勝会が設立され、現在に至っているとのこと。同様の経緯により横浜市の管理下にある二つの文化施設だが、小さな丘陵のあちらとこちらで明暗がくっきりと分かれたかたちである。それには、宗教性の有無のみならず、建築物の用途の柔軟性、また、行政による管理運営の限界も深く関わっていよう。しかし、三渓園の点在する古建築といえども、庭園の景物としての存在に重きが置かれる現状からすると、三渓の支援を受けた芸術家たちが滞在制作をしたり、海外の要人の迎賓館として用いられたり、それぞれの建物が機能を持って使われていた往時はいかばかりであったか、と偲ばれる。

サンプルイメージ 三渓園の公式HPを見ると、「園内にある国指定重要文化財・横浜市有形文化財あるいはそれに準ずる建築物(一部を除く)は、茶会、句会などの文化的催事、撮影などにご利用いただけるよう、貸出しております。鶴翔閣では、文化的催事以外のご利用、会食、懇親会など、また、迎賓、コンベンションプログラムの会議・パーティ会場にもご利用いただけます。」とあり、建物ごと、部屋ごとの借用料が示されている(http://www.sankeien.or.jp/rental/fee.html)。ただ、飲食については厳しい制限が設けられているようで、「鶴翔閣での飲食は、三溪園契約登録業者からケータリングサービスとさせていただきます。飲食物の持ち込みはできません。」 その他の古建築物・庭園では、「茶会の点心席での利用に限り、飲食ができます。 」とのこと。これだけ様々なスタイルの建物が移築されているのに、お茶室として以外の利用が難しい状況になってしまっていることは少々残念に思える。

 さて、この遠足報告書、途中から次第に個人的な関心に引き寄せてしまっているが、それというのも、目下家族でおよそ100年前に建てられた洋館の活用に取り組んでいるからである。この場を借りて宣伝させていただくと、2007年9月30日に私自身の結婚披露のパーティの開催を皮切りに、翌10月1日より一般利用を開始した、神戸市塩屋の洋館・旧グッゲンハイム邸。現在のところ、結婚式等パーティの会場としてはもちろん、コンサート、講演会、落語、教室、リハーサルや録音、雑誌等のスチールの撮影に使われ、新しいところでは映画のロケの話もきている。また、一部展示スペースとしての活用もはじめている。建物の可能性を最大限に引き出して、様々な要望を積極的に検討してゆく心積もりである。

 文化資源学会での遠足や研究発表会も歓迎、皆様のご利用をお待ち申し上げております!


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