第21回 近くて遠い遠足 「神田祭附祭」
日程
- 2007年5月12日(土)
案内人
- 木下直之(東京大学)、福原敏男(日本女子大学)
江戸の神田明神祭礼は、日枝神社の山王祭とともに、将軍の上覧に供したがゆえに天下祭として知られてきました。隔年で開催され、明治維新前後に一時的に中断したものの、その後復活し、今日に至っています。しかし、東京の近代化は祭礼の有様を大きく変えてしまいました。山車と練物中心の祭礼行列は、街路上に張り巡らされた電線によって巡行を止められ、代わって、神輿の巡行が祭礼の中心を占めるようになったからです。しかし、近年、神田明神はかつての神田祭の附祭(つけまつり)の歴史的復元に積極的に取り組んできました。一昨年には大鯰の練物を製作し、本年は大江山凱陣の鬼を加える予定です。本学会は、2009年5月に向けて2年をかけ、神田祭の歴史に関する調査研究を行い、学術的見地からの考証や助言を与えるなど、この復元事業を支援します。
祭礼行列の光と影 −馬糞拾顛末記−福原敏男 FUKUHARA Toshio(文化資源学会会員、都市と祭礼研究会代表)
「文化資源学会」と「都市と祭礼研究会」では神田祭復元プロジェクトを立ち上げ、今年五月一二日、神田祭の神幸祭附祭りに会員ほか約七〇名が参加した。
大江山に棲む鬼の首領から、貴族の姫君を救い出した源頼光一行は鬼の斬り首を押し立て、意気揚々と京都の都大路を御所まで凱旋した…。
この物語は、近世諸都市の祭礼に仮装行列として採り入れられるほど好まれた。京都御所への凱旋と、江戸城への練り歩きというイメージを重ね合わせたものであろうか、『江戸名所図会』にも神田祭の出し物として描かれている。我々の「大江山凱陣」は東のみやこ、東京の中央通りを練った(というよりも小走りをした)。
我々は江戸のメインストリートに相当する現在の中央通りから秋葉原を経て、神社まで行列したのであるが、「緊張して急がされた中央通り」と「それが緩和されたホームグラウンド秋葉原」という印象を持った。後に聞くところ、この両地区は管轄の警察署が異なるという。江戸時代において、城下町など都市の祭礼は風流の練物(仮装や歌舞音曲など)が横溢していた。しかし一見華やかな行列にも、光と影のような役割が混在していたのだ。
祭礼の参加者にはさまざまな人々がいた。飲食の準備のために裏方で働く人たち、武器を携帯して供奉した幕府や藩の家臣団、寺社関係の人々などについては、ここでは触れないことにする。
祭礼の参加者は、氏子の町人と、氏子に雇われた人々から成っていた。氏子の町人といっても江戸時代の神田祭においては、富裕な本町人から裏長屋の店借や地借のような庶民まで、さまざまな人々がいた。雇われた人々のなかには、有名な芸人や芸者、行列を守る警固、宮神輿を担ぐ役、囃子まで多様であった。大店(おおだな)の主人など本町人は、相応の金品を負担し、羽織袴や裃姿で行列に加わり、鳶、若者などの商人や職人が山車や附祭りに参加したのである。
このような人々は見物人から喝采をあび、殿様や大奥から誉め置きを受ける光の部分であったが、祭礼には汚れ役もいた。江戸時代の史料を見ていると、行列を先導して道を清めるキヨメ役を、身分的に差別されていた人々に担わせる地方があったことがわかる。ふだんは大寺社周辺で牛馬処理など雑役を担っていた被差別部落の人々が、祭礼に動員された事例もある。もちろん、被差別民以外の祭礼キヨメ役も多かったが、いずれにしても、キヨメ役は祭礼行列を支えるいわば影の部分である。彼らは実際に箒で道を掃き、牛馬糞を拾うこともあるが、箒状の竹(ささら)を突き立て、警固として働く役割もあった。
ところで、私が代表をつとめている都市と祭礼研究会は零細研究会ではあるが、四月に『天下祭読本』という幕末の神田祭に関する書物を上梓することができた。この研究会員に一二日の祭礼行列の馬糞掃除役を神社から依頼されたのは、五月連休の研究会後のことであった。「大江山凱陣」の前方に、福島県相馬野馬追いの武者行列が附祭りとして参加するので、その馬糞掃除を依頼されたのである。不満を感じる人があるやもしれぬと思ったが、即座に三〜四名の会員が手を挙げてくれた。
祭礼当日の日本橋三越横の路上、我々は東京芸大のサンバチームの後ろで待機していた。出発予定の四時頃になると、「神社の馬糞の掃除・・・」と叫ぶ大声が聞こえた。少し殺気立っている気配である。馬糞掃除役の三人は道具をリアカーに積み、人垣を押し分け、押し分け、中央通りに出た。それから二時間後、パレード終了後の神社まで彼らを見ることはなかった。
中央通りを管轄する警察署は、このメインストリートを通行する神社の長蛇にわたる神輿渡御や附祭りに対して、予定時間超過阻止をすべく神経質になっていたようだ。これまでに路上のトラブルも少なからずあったという。警官は馬糞掃除に対して権柄尽(ずく)な態度であったらしい。罵倒口調で急き立てられつつ、しかし彼らは最後まで馬糞拾い役を全うした。義父母に馬糞を拾う姿を見せてしまった人や予定していたパレード後の懇親会を欠席した人もいた。京橋地区管轄の警察…、平安時代の検非違使に打擲されつつ馬糞を拾っている下人。平安・中世の祭礼絵巻の一場面をふと思い浮かべるような出来事であった。
後日馬糞拾い役の彼らは、江戸時代の祭礼史料の行間を読むことができた、と語った。すなわち、江戸時代における穢れ清め役の身分、その差別のあり方を実感することができたというのだ。さらに二年後の神田祭ではディズニーランドの清掃キャストパフォーマンスよろしく、江戸時代の仮装の馬糞拾いを練物のひとつとして完成させたい、と抱負を述べた。馬糞拾いを一芸に! 興味深いことではあるが、ことさら実行する必要はないだろう。