第17回 盛暑の遠足 「水運と醸造の町・佐原の夏祭りを行く」
日程
- 2006年7月15-16日(土・日)
案内人
- 姜竣(城西国際大学)、塚原伸治(筑波大学)
日本の祭りの最も重要な変化は、信仰を共にしない「見物」と称する群れの発生が、幟や提灯、神輿の渡御といった派手な視覚的要素の追加を促し、当事者も見られる祭りを意識するようになったことです。かつて柳田国男は、この変化を祭りの「祭礼」化と呼びました(『日本の祭』)。祭礼化は都市の、しかも、夏祭りに顕著ですが、理由はその典型となった京都八坂神社の祇園祭にあります。一つには、都市では水の害(洪水、疫病の流行)を恐れたことから祇園信仰が波及したため、もう一つには、中古以来、京都という都会の「風流」が流行したためです。
近世以降、利根川の水運と醸造で栄えた町、千葉県佐原では夏に本宿、秋には新宿でそれぞれ大きな祭礼が行われますが、夏の祭礼は八坂神社の祇園祭といいます。現在、祭礼の運営は町内ごとに、年齢階梯に基づいた役割分担によって営まれますが、かつては「重立」あるいは「ダンナさん」と呼ばれる、醸造家たちが極めて大きな役割を果たしていました。佐原の祭礼には現在、夏秋合わせて二五台の山車が登場し、山車を引き回すという形態自体は江戸中期に始まりますが、かつて「ダンナさん」たちはその製作費、さらに祭礼の費用をほぼ全額賄っていました。佐原の山車は生き人形が有名で、その多くは鼠屋(八体)を始め、安本亀八(四体)、大柴徳治郎といった人形師が手掛けています。
そのように祭礼化を積極的に捉える見方に立てば、祭りを主に信仰の問題に閉じ込めてきた民俗学が見落とした興味深いテーマが浮かび上がってきます。すなわち、商業的繁栄と富の分配、工芸史、観光化などの問題です。今回の遠足は、そうしたことを考えながら、佐原の夏祭りに行きます。なお、二〇〇六年は三年に一度の本祭の年で、「年番」の交代にともない、全ての山車を並べて同じコースを引き回す「番組」が観られます。
行程
1日目
祭礼(番組、年番交替、乱引き、のの字回し、生き人形、などなど)
伊能忠敬記念館(佐原市の旧宅地内)
佐原市内に宿泊(ただし日帰りの参加も可)
2日目
酒蔵見学(佐原市内)
香取神宮(佐原市香取)
祭りの存続と観光化姜 竣
今回の遠足(2006年7月15〜6日)は、千葉県佐原市の夏祭り・八坂神社祇園祭へ行った。佐原は、江戸時代以来、利根川流域と江戸を結ぶ水運の町で、近代の初めには醸造業で県下一の財力を誇るほど栄えた。佐原の祭りは、そうした商業的な繁栄を背景に江戸中期から明治にかけて、総檜作りの山車のまわりに彫りを施し、人形を載せるといった見世物の要素が加わり、一段と派手になっていった。現在、祭りの運営は町内ごとに、年齢階梯に基づいた役割分担によって営まれるが、かつては「重立」あるいは「ダンナさん」と呼ばれる、醸造家たちが極めて大きな役割を果たしていた。佐原の祭りには現在、夏秋合わせて二五台の山車が登場し、かつて「ダンナさん」たちはその製作費、さらに祭りの費用をほぼ全額賄っていた。佐原の山車は生き人形が有名で、その多くは鼠屋(八体)を始め、安本亀八(四体)、大柴徳治郎といった江戸の人形師が手掛けている。 近世以降、「見物」と称する群れの発生が、幟や提灯、神輿の渡御といった派手な視覚的要素の追加を促し、当事者も見られる祭りを意識するようになった。かつて柳田国男は、この変化を祭りの「祭礼」化と呼んだが、祭礼化を積極的に捉える見方に立てば、祭りを主に信仰の問題に閉じ込めてきた民俗学が見落とした興味深いテーマが浮上してくる。すなわち、商業的繁栄と富の分配、工芸史、観光化といった問題である。
遠足に向けて行われた研究会(6月17日、東大)では、佐原大祭の概要とそれを支えた「ダンナさん」たち(塚原伸治)、人形師・鼠屋(木下直之)、祭礼と芸能(平野恵)、祭礼と民俗統制(姜竣)をテーマに事前勉強をし、いざ佐原へ。
今年の佐原夏祭りは、3年に1度の「本祭」で、「年番」の引継ぎにともない、すべての山車を並べて同じコースを曳き回す「番組」が観られた。通常、佐原の山車は、各町内が思い思いのコースを曳き回す「乱曳き」が行われる。番組にせよ乱曳きにせよ、見ものはなんといっても「のの字廻し」と呼ばれる曲曳きである。しかも、高さ7メートル、重さ3トンの山車の回転をぎりぎりのところまで近づいて、押し合いへし合いしながら見るのが醍醐味だ。いま、私は「見る」といったが、その場にいると押(お)し競(くら)饅頭の状態になって、山車の廻る様子や「ワッパ」という車輪の描いた「のの字」など、じつは見えやしないのだ。けれども、そこにいれば、公民館などの2階に陣取ったテレビカメラの映像からは「見えない」何かが感じられる。それは、ちょうど事前勉強会で私が取り上げたような、時に祭りの熱狂さを一気に叛乱へと向かわせた危なっかしい何かである。 年番交代の見所は、山車の1台1台が順次に囃子を奏でる「通し砂切」と、それにあわせた曳き子たちの踊りである。その時山車は、香取街道に一列に整列した状態である。香取街道は、利根川へ流れこみ、水郷佐原を育んだ小野川と交差する道で、その沿道には土蔵作りの町屋、大正期に建てられたレンガ造りの洋館などが点在している。少し時代は下るが、昭和初年に建てられた旧千葉銀行佐原支店の建物もその一つで、現在は蕎麦屋の別館になっている。木下会長は、銀行から蕎麦屋という「オチ」も含めてその建物が大層気に入ったらしいが、そういえば、蕎麦の味についてはあまり語らなかった気がする。ちなみに、2日目のお昼に皆で寄った鰻屋では、重箱の隅を突っつくのはいやだといちばんに鰻丼を注文した木下会長。しかし、案の定、残りの19人が注文したのはすべて鰻重だった。学会の行く末を案じ、会長の名誉のために言っておくが、確かに鰻丼の方が食べやすい。でも、「文化」って、いや、その先は武士の情けで言わないでおこう。 2日間の遠足でもっとも印象に残った質問(じつをいうと、もっとも答えに困まった質問)は、祭りの存続と観光化に関するものだった。祭りを営む側の論理は、究極には父がそうしたから、父の父もそうしたから、ということにある。だから、祭りは、神事という信仰の要素より、行為者の慣習の論理による側面が大きく、そこで、自分の代でやめたり変えたりする訳にはいかないという義務感と、本来ならよそ者を寄せつけない排他性が働く。一方、民俗芸能が古典的な芸能に比べてそうであるように、じつは民俗的なものは、観光化や政策やメディアに対して開放的である。祭りが存続するためには、今の時点でもう一度そうした本質的な矛盾をきちんと認識しておく必要があるだろう。
最後に、企画から実施に至るまでさまざまな教示と協力をいただいた塚原伸治さんに、この場を借りてお礼をいいたい。塚原さんは佐原市本宿の出身で、自ら祭礼に参加しながら民俗学的研究を行っている。また、遠足の後、春日恒男さんからは、地元川越市の祭りに関する図録をいただいた。川越市、佐原市、栃木市は、ともに江戸との舟運で栄え、江戸情緒を残す町並みと江戸勝りの山車祭りをもつことから「小江戸」とよばれる。そして、約10年前から、3つの市の市長と市民が集まり、まちづくりについて考える「小江戸サミット」という催しを続けているらしい。私は、春日さんが私たちに今後の課題を提示しているような気がしてならない。