第16回 陽春の遠足 「さよなら交通博物館・旧万世橋駅遺構見学」
日程
- 2006年4月15日(土)
案内人
- 根岸あかね(株式会社ウェッジ)
今年5月14日、神田の「交通博物館」が閉館する。ここは、かつて中央線のターミナル駅として開業した万世橋駅があった場所でもある。しかし、明治45年の開業当初の華々しさとは裏腹に、程なくして、この駅は不運な運命を辿ることになる。
駅舎は東京駅と同じ辰野金吾の設計、舎内には1等2等待合室・食堂・バー・会議室などがあり、駅前には、日露戦争の軍神広瀬中佐と杉野兵曹長の威風堂々とした銅像があって、東京市民から親しまれた。大正3年に中央駅としての東京駅が開業し、同8年に中央線の万世橋〜東京間が開通すると、万世橋駅は単なる途中駅となった。その後、関東大震災で被災し、再建されたもののかつての偉容は失われた。昭和11年になって、東京駅北口の高架下にあった鉄道博物館(大正10年開館)が移転、万世橋駅(3代目)と併設されたが、昭和18年10月31日に駅営業を終了した。第二次大戦後は「交通博物館」として再開、現在に至っている。
閉館を前に特別公開される旧万世橋駅の遺構、特別企画展を見学する。その後は東京に移動し、東京駅と明治生命館を見学する予定。
「さよなら」のあとの交通博物館根岸あかね
万世橋駅の歴史
万世橋駅の開業は、1912年(明治45)。赤レンガに白い花崗岩を用いた壮麗で重厚な駅舎は、のちの東京駅設計のための習作だったという説がある。その後開業した東京駅には及ばずとも、単なる発着駅ではなかったことが設備内容から窺える。高架線上にはプラットホームが2本あり、神田川寄りに、長距離列車用の長いホーム、駅舎寄りに短いホームがあった。しかし、開業当初の華々しさとは裏腹に、その後短い期間にこの駅は不運な運命を辿ることになってしまう。1914年(大正3)にターミナル中央駅としての東京駅が開業、1919年(大正8)に中央線の万世橋〜東京間が開通すると、万世橋駅は単なる途中駅となってしまったため、利用客が激減したという。さらに1923年(大正12)に関東大震災が起こって万世橋駅は倒壊・火災で大損害を受けた。駅舎は1925年(大正14)頃までに残存部分を利用して再建されたものの、非常に簡素な造りとなった。この2代目万世橋駅の再建と同じ頃、中央通りの新設・拡幅工事が行われ、須田町交差点が東寄りに移動した。これにより駅前の道が裏通りのようになった。そして1936年(昭和11)に、東京駅北口の高架下にあった「鉄道博物館」がこの万世橋駅に併設される形で移転してきて、4月25日に「鉄道博物館」として開館する。
この「鉄道博物館」を併設するために、駅の規模が縮小され(!)、初代駅舎の基礎と高架線下を利用して新館を建設した。これが3代目の駅舎であった。以来、駅舎と博物館が一体化した珍しい交通施設として利用された。しかし、わずか7年後の1943年(昭和18)10月31日に、万世橋駅は戦時下の「不要不急駅整理」の一環として、31年間の営業を終える。万世橋駅の設備や備品は、ちょうどその頃開業した東海道線・新小安駅に流用されたといわれている。そして1946(昭和21)年に交通総合博物館として再開、陸・海・空関連を含む資料展示施設となり、1948(昭和23)年に「交通博物館」と改称された。1987年(昭和62)の国鉄分割民営化に伴い、東日本旅客鉄道株式会社(JR東日本)の企業博物館となって営業を続けていた。
当日の模様
「さようなら交通博物館」展は、2005年(平成17)12月16日に始まったが、閉館が近づくにつれ来館者が増え、「遠足」の日は土曜日の昼間だったこともあり相当な混雑だった。かつて幼少期にも訪れたらしい親子2代の来館者が目立ち、親の方が熱心に見学している姿が印象的だった。今回の遠足の目玉、「旧万世橋駅遺構」の見学は、同館係員の説明によると待合室として使われていた場所に該当する、ということだったが、アーチ型に積み上げられたレンガの基礎の、がらんとした空間から往時を想像することは難しかった。見学者(学会員とは無関係)のなかには、駅として利用したことがあるという人もいたが、駅前の広瀬中佐と杉野兵曹長の銅像は記憶に甦っても、当時の駅舎の姿は思い出せないということだった。ホームへ上がる階段も一部公開されていた(ただし展示室からガラス越しに見るのみ)。
筆者は閉館数か月前の1月頃から何度か通ったが、4月に入ると平日の朝も開館前から行列が出来るようになり、「遠足」が円滑に遂行できるか心配になった。鉄道マニアのことを「鉄男(鉄っちゃん)」、その女性を「鉄子」と呼ぶという。自分は「鉄子」とは思わないが、「遠足」の準備で通ううちに雰囲気にのまれ、気がつけば5種類(企画展会期を5つの期間に分け、それぞれに異なる記念きっぷが発行された)の「特別記念きっぷ・再現硬券」をすべて集めていた。残念なことに閉館日の5月14日には行けなかったが、聞けば閉館後も数時間、大勢の熱心なファンが博物館を取り囲み、あたりは異様な熱気に包まれていたという。その模様は新聞等で報道されたから「閉館」のインパクトがわかる。
その後の交通博物館
2007ン面(平成19)の10月14日(鉄道の日)、さいたま市に「鉄道博物館」がオープンした。敷地面積は「交通博物館」の約8倍、展示面積は約2倍。なかでも総延長1400メートルものHOゲージの模型鉄道ジオラマは国内最大級といい、「交通博物館」に比べすべてがまさに現代的で「テーマパーク」という言葉がぴったりの施設だ。
さて「交通博物館」はといえば、こちらも一変した。筆者は当地から徒歩10分以内の場所に勤務先があるにもかかわらず、定点観測的な作業をまったく怠っていた。たまたま仕事で当館にお世話になっていたため、閉館後もしばらく事務的な用事で訪問していたが、それも2007年3月までだった。実際その年の8月末まで、研究者やマスコミに対応して各種写真資料等の貸出業務が続けられた。その後も時折気になって行ってみたが、当館の解体工事が本格的に進んだ2009年秋頃には工事用壁の外側から眺めただけで、さらに筆者自身の事情で物理的に現地確認が出来ない時期があり、今回本稿を改めるにあたってようやく「再訪ひとり遠足」を行なった。
2013年1月に「交通博物館」跡地に「JR神田万世橋ビル」が竣工した。地上20階、地下2階建て。屋上に緑化庭園があり、認証保育所、賃貸オフィスフロア、貸し会議室があり、JR東日本が運営するカンファレンス事業などが4月から本格稼働するという。大きく様変わりしたが、当地の歴史的変遷を後世に伝え残そうという意図が随所から伺える。中央線が通る高架橋を見通すように、敷地内には貫通通路や歩行者用空間がある。当地の開発コンセプトは「地域・歴史性をふまえた開発」「環境配慮・自然親和をふまえた計画」「交流視点をふまえた計画づくり」という。オープンスペースにはベンチ、電気自動車充電設備、そして当地の歴史「筋違門」時代から「旧万世橋駅」、「交通博物館」への変遷を解説する立派な「ピクチャースクリーン」が設置されているなどに、その一端が表されていると言えるだろう。
レンガ積みの高架橋は、物販や飲食店が整備され観光施設化も図られるといい、3月の時点で工事中である。ということは、アーチ型の高架橋内部の構造を見られる絶好のチャンスなのだが、通りすがりを装い工事壁の隙間から眺めた(覗き込む)だけだった。地下駐車場へのスロープ壁には、解体工事で出た(?)レンガの破片がモザイク状に埋め込まれている(思わず破片の残りが落ちていないか工事壁に近寄ってしまった)。
以上のように、当地は場所と歴史、空間と時間の継承を意識させようとするが、旧「交通博物館」から新「鉄道博物館」が所蔵していた展示資料はどうだろうか。国鉄改革およびJR東日本自体に関連する展示・所蔵品は移管されたが、それ以外は、それらが関連する博物館等へ引き取られていった。そういう意味では新「鉄道博物館」は鉄道資料により純化された施設となったが、旧「交通博物館」の、運営母体環境も含めた変遷、独特の雰囲気と環境、老朽化した施設ではあったが建築物としても特異な存在感は、JR神田万世橋ビルにはない。これだけ変化を遂げた「遠足」地も少ないだろうが、この簡単な“記録”によって、旧「交通博物館」を遠足に参加された方々のみならず、学会員諸氏の“記憶”の片隅にとどめていただけたらと思う。