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第15回 厳寒の遠足 「北村西望:ふたつの「平和祈念像」をたずねて」

日程

  • 2006年2月25日(土)

案内人

  • 末廣眞由美(リーマン・ブラザーズ証券会社)
サンプルイメージ

原爆が投下された長崎市の平和公園には、北村西望が製作した「平和祈念像」が建立されています。高さ9.6メートルの平和祈念像は、原爆が投下された8月9日に長崎市が主催する「長崎原爆犠牲者慰霊平和記念式典」において、参列する被爆者や関係者らの正面に座している像であると同時に、長崎を訪れる来賓、観光客、修学旅行の学生らが必ず訪れて見上げる像、いわば「見世物」でもあります。つまり、平和祈念像とは、慰霊の対象であると同時に見世物でもあり、さらには爆心地を指し示す碑であるという、非常に多義的な偶像モニュメントであるといってよいでしょう。

こうした、平和祈念像の孕む多義性は、建設当時から示唆されていたようです。平和祈念像と台座は、当時の金額で4,000万円強の資金を投じて建立され、その大半が国内外からの浄財で賄われました。長崎市は、像の建設を全面的に支援するとともに資金集めに奔走しますが、残された資料によれば、1955年8月の完成当時、浄財は制作費の全額には達していなかったと考えられます。一方、完成当時、すでに戦争病者戦没者の遺族らには援護法が制定されていたのに対し(「戦争病者戦没者遺族援護法」は1952年制定)、被爆者やその遺族には何らの援護法も制定されていなかったことを一因として(「原爆医療法」は1957年、「原爆特別措置法」は1968年制定)、本来であれば原爆の記憶の中心であるべき被爆者や遺族らの側から批判の声もありました。

また、長崎市の平和祈念像は、それが唯一無比の存在ではない、という興味深い点も見逃せません。平和祈念像の原型は井の頭公園内の「彫刻館」で保存・公開されている石膏像であり、さらに、縮小像も含めると実に多くの「複製品」が存在しています。例えば、北村西望は、平和祈念像の縮小ブロンズ像を数多く制作したとみられ、このうちの数点は彫刻館の倉庫に保存されています。また、三鷹市は「みたか百周年記念事業」の一環として、1990年11月に平和祈念像の1/4像を三鷹の平和のシンボル「平和の像」として建立しました。このほか、平和祈念像の縮小像が、長崎拘置支所(長崎市白鳥町)内の「長崎刑務所原爆殉難者慰霊塔」(1959年6月建立)の一部にもなっています。

このように、北村西望の平和祈念像は一見、長崎市という一地方のモニュメントでありながら、記念と観光の分かちがたい関係性、製作者の側と制作された像と向き合うことを余儀なくされる市民の側との対立、記念碑の「一回性」の問題など、記念碑を巡る諸問題を様々な角度から考える契機を与えうるものでもある、といえるでしょう。今回の遠足は、そうしたことを考えながら、平和祈念像の原型である石膏像、ならびに北村西望が平和祈念像制作の前後に手がけた作品を見学し、あわせて仙川公園の「平和の像」を訪れます。

※今回の遠足では、郷土史研究家・北村西望研究家の杉谷昭夫氏にご案内をお願いします。杉谷氏は、北村西望の遠縁にあたる方で、長く彫刻館でガイドを担当しておられました。現在は井の頭公園自然文化園の彫刻館で学芸員のボランティアとしても活動しておられます。


行程

サンプルイメージ
  • 13:00 井の頭公園自然文化園「正面入り口」に集合
  • 13:10 園内「彫刻館」前にて簡略な説明の後、彫刻館内の見学
  • 15:23もしくは15:44 文化園前から小田急バス「仙川行き」に乗車
  • 16:30 仙川公園にて「平和の像」を見学


平和や平和新年を表象するかたちについて末廣眞由美

第15回遠足は2006年(平成18)2月25日(土)、井の頭自然文化園の一画にある「彫刻園」の見学を中心に行った。彫刻園とは、彫塑家・北村(きたむら)西望(せいぼう)(以下、北村)の作品を屋内外に展示・保存する記念館である。解説を担当してくださったのは郷土史研究家であるとともに北村西望研究家でもある杉谷昭夫氏で、氏は北村の遠縁にあたり、彫刻園で長年ガイドを勤めてこられた方である。
最初に、彫塑家・北村と、北村の作品が自然文化園内の彫刻園に保存されることになった経緯について説明しておこう。
北村は1884年(明治17)12月16日、長崎県に生まれた。朝倉文夫(1883〜1964)、建畠大夢(1880〜1942)らとともに「文展の三羽烏」と称された北村が生涯で制作した彫像には、現在は長崎県南高郡の橘神社に設置されている「橘中佐像」(1919年〈大正8〉完成)、国会議事堂内の「板垣退助翁」(1938年〈昭和13〉完成)、三重県鳥羽市のミキモト真珠島に建立された「御木本幸吉像」(1953年〈昭和28〉完成)などがある。
しかしなんといっても、彼の作品の中で最も規模が大きく、かつ著名なのは、長崎市の爆心地に建設された平和公園内にある「平和祈念像」(1955年完成;以下、祈念像)であろう。原爆犠牲者の冥福を祈るための記念碑を計画した長崎市は、1951年、碑の構想・建立を北村に正式依頼し、この依頼を引き受けた北村は、自身の作品を東京都に寄贈することを条件に井の頭自然文化園の一画を都から借り受け、1953年、祈念像製作のためのアトリエを同地に建設した。そして、1987年(昭和62)に102歳で没するまで、園内のアトリエに暮らし製作活動を続けたのである。
一方、東京都は1958年、寄贈された作品とアトリエを展示・保存すべく、園内に「彫刻園」専用区域を指定した。その後も寄贈作品の増加を背景に施設の拡充が図られ、北村が逝去した後には展示施設が抜本的に見直されることとなった。そして、3年半の再整備を経て1993年に再開園したのが現在の彫刻園である。
今回、われわれは、A館、B館、アトリエ館、屋外展示で構成される彫刻園内の作品を、杉谷氏の解説を受けながら見学した。最初に見学したのは高さ9.7メートルの祈念像の原型(石膏製、銀色塗装)を展示するA館である。長崎市の祈念像(青銅製、完成当時は白色塗装)は、高さ3.9メートルの台座の上に建立されているため顔の詳細を見極めることは難しい。これに対しA館では、像の顔を目線の高さで見ることのできる2階が設置されており、顔の詳細を観察することができた。製作者である北村は、祈念像の顔について「日本人にあらず、西洋人にあらず、神にあらず、仏にあらず、即ち神にして仏」をイメージしたと後に述べているが、今回の遠足では、祈念像の眉間に白毫とおぼしき突起があることも確認された。
しかしながら、顔の細部よりも、参加者らを圧倒したのは祈念像の規模であろう。実は、北村が構想していたのは、実際に完成した像よりさらに大きな像だった。しかし、予算の問題もあり、現在の像の大きさとなった。それでも完成当時、祈念像は彫像の裸像では世界最大とされ、少なくとも国内では注目を集めたのである。なお、A館には、祈念像として北村が当時、試作したと考えられる作品(観音像、女神像、男神の立像など)も保存されており、実現しなかった別の像についても見学することができた。
次に訪れたB館には、祈念像以前に北村が製作した作品群が展示されていた。北村は1912年(明治45)末から1年間、志願兵として兵役に従事(久留米工兵第18大隊)しており、これがひとつの縁となって複数の軍人像の制作を引き受けている。北村が自身の代表作としてしばしば言及した軍人像は「橘中佐像」「寺内元帥像」「山縣有朋元帥像」、「児玉源太郎大将騎馬像」だが、これら代表作のうち、寺内像と児玉像は銅像供出で失われている。ただし、残る橘像と山縣像も、彫刻園内に保存されているわけではない。
先述のように、橘中佐像は現在、長崎県の橘神社に安置されている。また、旧陸軍省の発注を受け1930年(昭和5)に完成した山縣有朋元帥像は、当初は旧陸軍大臣官邸に建立されていたが、戦後はGHQの要請で移設され、東京都の上野恩寵公園内にある東京都美術館裏に放置されていた。その後、北村の意向を受け、1962(昭和37)年に彫刻園が引き取ったものの、平和祈念像と軍人像が彫刻園で共存することは問題と指摘する市民の声もあった。一方、山縣像に対しては、山口県から移設を希望する声があがり、この要望に応えて、山縣像は1992年(平成4)に山口県の萩市中央公園内に移設された。ひとつの銅像が、ある時代には賞賛されても時代が変われば行き場を失ってしまうという、北村の作品に限らず起こりうる問題についても考えつつ、軍人像(縮小像)を中心に展示されているB館を見学し、その後、アトリエ館へ移動した。アトリエ館では、北村が人生の約3分の1を暮らした簡素な生活空間を見学しただけでなく、各界著名人らの肖像彫刻を見せてもらうことができた。
彫刻園をあとにし、いまひとつ訪れたのは仙川公園である。同公園では、「三鷹100周年記念事業」の一環として1989年に建立された三鷹の平和のシンボル「平和の像」を見学した。同像は祈念像の4分の1縮小像だが、周辺に長崎市の被爆に関する説明書きが見当たらなかったのは意外であった。はたして、爆心地という文脈から切り離されてもなお、また、その大きさが変わってもなお、平和祈念像というかたちが平和のシンボルでありえるのか。この点は、今も筆者にとっての問いである。
北村は晩年、祈念像の構想時を振り返り次のように語っている。「(長崎)市当局の考えていることは、要するに原爆記念碑の建設で……私としては、それを踏まえた上でさらに一歩踏み出し、平和を祈り、念じ、さらに世界に平和を呼びかける主旨であるならば、意にかなう。」
北村はこうした思いを込めて、自らの制作した像を原爆記念碑ではなく「平和祈念像」と名付けている。しかし、ここにもまた新たな問いが生まれてしまう。原爆を記念するための碑を、足早に一歩踏み出して世界に平和を呼びかけるための碑としてしまうことは、なぜ原爆が投下されなければならなかったのか、なぜ原爆の犠牲者が生まれてしまったのか、といった、より根源的な問題から目を背けることでもありはしなかっただろうか、と……。
厳寒の中、北村という一人の彫塑家の作品を凍えながら見学した今回の遠足が、平和という言葉の意味や、平和や平和祈念を表象するかたちの問題について、改めて考えるきっかけとなったなら幸いである。

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