第14回 冬至間近の遠足 「日本一小さな家訪問〜松浦武四郎の終の住処へ」
日程
- 2005年12月17日(土)
案内人
- ツベタナ・クリステワ(国際基督教大学)
「北海道」の名付け親として知られる江戸時代の探検家松浦武四郎は、晩年、東京神田五軒町の自宅に、わずか一畳敷の書斎を庭に張り出す格好で増築 した(明治19年)。これが滅法変わった建物で、全国各地の主に古社寺の古材を寄せ集めて建てられた。それぞれの古材の由来を記した『木片勧進』(明治 20年)という小冊子を自らまとめたが、それによれば、木片は、古くは奈良時代にさかのぼり、鎌倉時代と江戸時代初期のものが多い。生涯の大半を旅の空に暮らした武四郎にとって、大邸宅に住むことはむなしく、「一畳敷」は隠棲の場であるとともに、終焉の場であった。自分が死んだあとは、「一敷」を壊した木片で亡骸を焼き、遺骨を大台山(紀伊半島)に埋めてほしいと『木片勧進』の末尾に書き遺している。しかし、「一畳敷」は壊されず、人手に渡り、三鷹に移築され、国際基督教大学の構内に奇跡的に残っている。この家を訪れて、松浦武四郎を偲ぶとともに、同大学の湯浅八郎記念館も見学する。
行程
- 13:30 集合(中央線武蔵境駅)
- 14:00 国際基督教大学/松浦武四郎旧居「一畳敷」(泰山荘)見学/湯浅八郎記念館見学
- 17:00 解散
自邸に建てた書斎「一畳敷」鈴木廣之
松浦武四郎(1818〜1888)は旅行家で好古家、蝦夷地探検と北海道の命名で名高い。今回の遠足の目的は1886年(明治19)に武四郎が神田五軒町の自邸に建てた書斎「一畳敷」の見学である。この小さな家は1963年(昭和38)6月、武四郎の研究家である吉田武三によってICU(国際基督教大学)構内の泰山荘という施設の一郭に残されていることが確認された。 この建物が注目される理由はふたつある。武四郎が行なった「木片勧進」と、建物の数奇な運命である。1887年に武四郎が板行した『木片勧進』によれば、知友66人から 89点の歴史的な古材の寄進があった。その由緒と、部材として用いられた位置もわかる。多くは神社仏閣の古材で、寄進者には書家の市河万菴(1838〜1907)、好古家の蜷川式胤(1835〜1882)ら著名人も含まれる。一畳敷の新たな運命は、武四郎の没後、紀州徳川家当主頼倫(1872〜1925)の目にとまったことからはじまる。
● 1908年:一畳敷、神田五軒町(現在の千代田区外神田6丁目)から麻布飯倉町(港区麻布台)の紀州徳川邸内の私立図書館南葵文庫の裏庭に移築。
● 1924年:徳川邸とともに代々木上原(渋谷区上原2丁目)へ移転。
● 1925年:徳川頼倫の没後、頼倫収集の古材を用いた茶室「高風居」完成。一畳敷は、母屋にかけた庇の下を囲って小屋にした差掛なので自立できない。以後、高風居は母屋として一畳敷を支える。
● 1935、6年ころ:高風居と一畳敷、代々木上原から現在の三鷹市大沢の場所に移築。日産財閥の重役山田敬亮(1881〜1944)の新築別荘「泰山荘」の一部となる。
● 1940 年: 中島飛行機の社長中島知久平(1884 〜1948)、泰山荘を含む一帯を買収。三鷹研究所を建設。
● 1950年:ICU、旧中島飛行機の土地を取得。1952年開校。
● 1979〜80年:高風居と一畳敷、修復。現在に至る。一畳敷をめぐる物語と歴史については、コロンビア大学のヘンリー・スミス教授の労作『泰山荘:松浦武四郎の一畳敷の世界』(国際基督教大学博物館湯浅八郎記念館、1993)を参照ねがいたい。 待ち望んだ遠足の当日は晴れ。午後1時半JR武蔵境駅南口集合。小田急バスでICU構内へ。案内役は、同大学教授ツベタナ・クリステワ会員。中島飛行機の跡地である大学の構内はさすがに広大で、武蔵野の雑木林のなかを15分ほど歩いて泰山荘に到着した。
現在の泰山荘は6つの建物からなり、1999年に高風居、書院、蔵、車庫、表門が国の登録文化財に指定された。位置はキャンパスの南西の隅。その先は崖になっており、東西に走る東八道路が眼下に白く見える。道路の北側には野川が流れる。この一帯は湧水に恵まれ、かつては崖下に山葵田が点在し、大沢の山葵として知られたという。いまは木立に遮られて見えないが、富士山を遙かに望む絶好のロケーションでもある。 小径に沿って崖を下ると、武四郎の一畳敷は、高風居に寄り添うようにひっそりと建っていた。木下会長の説明のあと、5人ずつグループに分かれ、順番に高風居の土間に入る。茅葺屋根の民家風の高風居は、土間、水屋、茶室が東西一列にならぶ。ただし、当初の方位は時計回りに90度回転していた(東の方向が当初の北)。履物をぬいで土間を上がり、渡り廊下から母屋へ進む。6畳の茶室も3畳の水屋も柱や天井、欄間など、由緒ある古材が使われている。水屋の天袋の小襖は武四郎が板行した収集品カタログ『撥雲餘興』だ!
いよいよ一畳敷に入る。北側に接した一畳敷付属の廊下の襖を開けて鴨居(東福寺仏殿の古材)をくぐる。座ってしまえば室内はさほど狭くない。畳の四方を15センチ幅の板材が囲むので、実際の面積は約1畳半ある。身長142センチだったという武四郎でなくとも、大人3人くらいなら小宴や座談を楽しめそうだ。西側(当初の南)は大きな開口部に観音開きの板戸がつき、内側に障子を立てる。南側は庭に面し、腰板付きの障子2面が開き、西端に2尺幅の書棚が張り出す。縁はないが、短い土庇がのびる。東側は奥行き1尺の板敷きがつく。右半間が床の間。左の1尺幅の床脇には、地袋がわりに板の棚と天袋に神棚がつき、中央に障子付きの小窓が開く。窓の左右の木枠は『木片勧進』によれば、興福寺書院の板で、蜷川式胤の寄進。そっと指で撫でてみる。式胤が贈り、武四郎が慈しんだ木片だ。目を閉じると彼らの風貌が脳裏をかすめ て指先がふるえた。 一畳敷の見学を終え、構内を北東方向に歩く。15分ほどで湯浅八郎記念館に到着。1982年(昭和57)開館の大学博物館だ。初代学長の湯浅八郎博士(1890〜1981)が収集した民芸品と、構内から出土した考古遺物の展示を見学。館内をひとめぐりして外へ出ると短い冬の日はとっくに暮れていた。5時のバスで武蔵小金井駅へ戻り、一同解散。ほんとうに充実した冬至前の1一日だった。最後になったが、今回お世話くださった記念館の学芸員の方々に感謝申しあげたい。