第8回 錦秋の遠足 「国立劇場で歌舞伎をみる」
日程
- 2004年11月13日(土)
案内人
- 矢内賢二(国立劇場/東京大学)
文化資源の復元」という視点から歌舞伎の復活狂言を考えてみます。長らく上演の絶えた歌舞伎の演目を復活上演する場合には、台帳・錦絵・写真・劇評などのわずかな資料(これも文化資源)を手がかりにして、過去の演出・演技について考証が行われます。しかし解明不可能な要素や、興行上の制約から実現不可能な要素が多く、実際の舞台は「創作」に近いものになってしまいます。美術作品や建築物の復元同様、どこまでが「元通り」なのか、元通りにすることにどんな意味があるのか、というのは芸能においても常に問い直さなければならない問題です。
具体例として国立劇場11月歌舞伎公演・河竹黙阿弥作「噂音菊柳澤騒動(かねてきくやなぎさわそうどう)」を鑑賞します。これは柳沢吉保の陰謀による将軍家のお家騒動を描いた作品で、明治8年(1875)に「裏表柳團画(うらおもてやなぎのうちわえ)」の外題で初演。好評を得て再演を重ねますが、明治36年(1903)を最後に上演が絶え、今回は101年ぶりの復活上演です。観劇前の解説ではお芝居の内容とともに舞台裏で行われた具体的な復元作業の数々をご紹介します。
行程
解説: 10:15-11:30(伝統芸能情報館3F レクチャー室)
観劇: 12:00-16:00頃(途中30分程度の休憩があります)
復して活かす矢内賢二
第8回「錦秋の遠足」は「国立劇場で歌舞伎をみる」。当時国立劇場芸能部職員として公演の企画制作に携わっていた私がご案内をお引き受けしました。
大阪日本橋の国立文楽劇場がラブホテルと組事務所に囲まれているのに対し、東京の国立劇場はお濠を挟んで皇居とお向かいさん、しかもお隣は最高裁判所という立地です。今でこそ「固苦しい」「華やかさに欠ける」「一杯飲んで帰ろうにも店がない」と評判が悪いこの場所ですが、そもそも日本に国立の劇場というものがなく、明治時代同様「早く欧米並みに国立劇場を」が一部政治家・文化人の悲願であった1966年(昭和41)の設立当時には、その立地にふさわしい国家的威信こそがこの劇場に望まれていたに違いありません。
さて、江戸時代の歌舞伎では、夜明けから日没までまる1日をかけて公演を行い、それでも全部は上演しきれないほどの長い長いお芝居を上演していました。ところが現代になるとまさかにそういうわけにはいかず、そのうちのごく一部分、時には1幕・1場面だけを抜き出して独立上演する「ミドリ」(『より取り見取り』の見取りです)の形式が定着しました。必然的に、今日ではまったく上演されなくなってしまった演目や場面、またそれだけを見ても前後のあらすじがまったく分からないという演目が数多く存在します。そこで国立劇場の歌舞伎公演では、埋もれた作品・場面を発掘する「復活狂言」の上演と、あらすじを首尾一貫させて作品の全体像を明らかにする「通し狂言」の上演を、創立以来の重要な方針としてきました。
そこで当月上演の復活狂言、『噂音菊柳澤騒動』(原題は『裏表柳團画』)について、復活上演のためにどんな具体的な作業が行われたかをご紹介した上で、その成果を見物してみようというのがこの遠足の趣向でした。
復活作業の際にまず何より根本となる資料が台帳(台本)です。本作の台帳は『黙阿弥全集』にも収まっていて手軽に読むことができますが、それをそのまま採用することはできません。現代の観客にも筋の運びが分かりやすいように、また現行の上演時間(幕間を含めて4時間前後)に収まるように、本文をバッサバッサとカットしていき、必要なところは文芸スタッフがせりふなどを書き直して繕っていきます。
そして歌舞伎の台帳では、せりふ以外の情報、例えば大道具に小道具、衣裳、鬘、下座音楽などの視聴覚的要素は大幅に省略されているのが通例ですので、台帳だけで実際の舞台を再現することはほぼ不可能です。
そこで補助資料として、錦絵、あるいは明治以降の演目の場合はプロマイド・絵ハガキの写真が用いられます。ただしこの錦絵というやつは相当に危険で、実際の舞台を写し取ったわけではなく絵師が想像で描いているケースも多いので、錦絵に描いてあるからその通りに上演したとは限りません。あくまでも雰囲気を知るための参考資料として扱う必要があります。また写真は錦絵と違って相当に頼りになる資料ですが、復活上演の対象になるような珍しい演目がたまたま写真に残っているかどうかは運次第といえます。その点今回の演目は、初演時に主演した9代目市川団十郎の写真集に複数の扮装写真が残っており、その役の衣裳や鬘はほぼこの写真を基にすることができました。
あとは過去の上演時の雑誌記事などを集めて、実際の舞台の様子についての情報を得ることになりますが、これらの資料調査に基づいて「忠実に復元」しただけでカタがつくかというと決してそうではありません。これは生身の役者が演じるものであり、お金を払ったお客様が楽しみに見に来るものですので、「過去にこんなものがあった」というだけではダメで、現代の舞台作品としても面白く見られるものでないといけません。
そこでこの興行の座頭(ざがしら)、つまり配役や演出の総責任者である尾上菊五郎丈と細かい打ち合わせを重ね、直すところは直し、また新たなアイディアが飛び出せばそれを盛り込みつつ(これが大変)、上演台本を作っていきます。さらに稽古場で出演者が実際に動きながらせりふを言う段になると、台本では整っていてもスムーズにいかない点が色々出てきますので、その場で随時修正が入っていきます。
こうして101年ぶりに『裏表柳團画』が甦る……ということなのですが、もうお気付きのように、すでに『噂音菊柳澤騒動』は黙阿弥の書いた『裏表柳團画』からはかなり遠いところへ来てしまっています。
もちろん美術作品や建造物といった「モノ」の修復・復元にも、記録資料だけでは埋めきれないピースを想像で補うことが多々あるでしょう。しかし歌舞伎をはじめとする芸能の場合、「モノ」がほとんど存在しないだけに、その度合いが甚だしい。少なくとも作り手の側は、「復活」を謳いながらも、実はかなりの部分が「創作」である、ということを暗黙の了解として仕事を進めています。だからといって「現物を見た人がいないんだから何をやっても構わない」ということではもちろんなく、同時代の観客に向けた興行作品として成立させながら、いかに原作の魅力を残し伝えるか、という実に難しいバランスを求められるわけです。またそうやって時代に合わせて絶え間なく変化していくことこそが芸能本来の姿なのではないか、という考え方もあり得ます。で実際には「復活大成功、演目の財産が一つ増えた!」という場合もあり、「とほほ、やらなきゃよかった」という場合もあり。そのあたりは「元に復す」のではなくあくまでも「復して活かす」ことを目指す復活狂言の宿命なのかもしれません。しかしそうすると、国立劇場の設立趣旨には「芸能の保存・伝承を使命とする」と書いてありますが、そもそも芸能を「保存」することなど可能なのでしょうか? 芸能をどうすれば「保存」したことになるのでしょうか?
というような話をさせていただいたあと、全員で客席に移動してお芝居を楽しみましたが、観劇後に私の伺った中で圧倒的に多かった感想は「菊之助さんがキレイ」でした。ええ、色々言いましたが、実は私も一番大事なのはそこだと思います。