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第6回 初夏の遠足 「浜御殿から浜離宮へ」

日程

  • 2004年5月15日(土)

案内人

  • 北原糸子(日本史研究者)
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浜離宮恩賜庭園は、江戸時代は将軍が浜遊びを行うための庭園で、「浜御殿」と呼ばれていました。海水を引き入れた潮入の池とふたつの鴨場を持つユニークな性格は、後楽園や六義園など都内に現存する大名庭園と比べて際立っています。明治維新後は皇室の庭園となり、名前を「浜離宮」と変えます。その間に、幕末には軍事施設的としての改造、明治初年は延遼館が建設されて外交の場となるなど、新たな役割がつぎつぎと与えられました。
明治5年には、隣接する汐留に日本最初の鉄道駅が設けられます。この地区が近世から近代へとどのように変貌したか、その痕跡をたどって歩きます。

行程

  • 14:00 浜離宮恩賜庭園

将軍の庭、接待の庭、軍事の庭 山内直樹(編集者)

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快晴のなか、初夏の遠足参加のため、午後2時、浜離宮恩賜庭園へ行く。
案内人・北原糸子さんの作成された、ボリュームのある文化資源学会散歩用資料「浜離宮庭園の近世・近代」が配られる。江戸期の「御浜御殿ノ絵図」と明治17年の陸軍省測量部作成の地図を見ながら、外国要人接遇所だった延遼館跡や鴨場、Mt.Fujimi、将軍お上りの場などを見て回る。庭園には多くの遊客がいて、海にはボートや遊覧船が往き交い、潮風がとても心地よい。
庭の一角に建つ可美真手命像の台座には、次のような文言が記されているようである。
「奉祝 大婚第二十五回令恭献此可美真手命像 明治二十七年三月 在職陸軍将校及同相当 総代陸軍大将●仁親王」
可美真手命はニギハヤヒの子で、神武東征に従って功があった。近衛兵としての内物部の祖とされているから、明治天皇銀婚祝賀のため陸軍が献上するのにふさわしいものだったのだろう。佐野昭の作。靖国神社の大村益次郎像が明治26年、皇居前広場の楠木正成像が明治31〜33年だから、ずいぶん早い時期に建てられたものである。しかし、なぜここに置かれたのかはよく分からない。

これはこの遠足当日、筆者が日誌に記したことだ。そのころ、こんなところに関心があったようだ。
当日、北原さんから浜離宮庭園の歴史と歴代徳川将軍の浜庭園の利用について、説明があった。もともとは4代将軍徳川家綱の弟の浜屋敷、海手屋敷だったのが、将軍の別邸(浜御殿)となったのは6代将軍の家宣のときである。とりわけ海に面した汐入りの庭園であるところに大きな特徴があった。そのため、将軍や奥方(御台)の遊興の場として、また京から下ってくる勅使たちの接待の場として使われ、12代家斉の御台などは釣りに興じ昼食時も忘れるほど熱中したそうで、なかなか興趣に富んだ庭だった。
われらはこうした遊興の場である庭を時計回りとは反対に、新銭座鴨場で鴨猟をするための大覗き・小覗きの小屋を、東京湾につながる庭の先端の富士見山には上ってみて、次に海沿いを歩いて海手の茶屋跡をかすめ、水門を越えて将軍のお上り場へと行ったのだった。このお上り場は、将軍がお成りになるとき(お城から出て一石橋あたりから御座船に乗ってやって来るとき、また将軍が遊漁をたのしむとき)に使われた。あえて言えば、その遺構はいまの時代も使用を許されず、一般人はこの少し先にある水上バス発着所(浅草行き)へ行かねばならない。
さて、浜御殿の役宅で生まれ、軍艦奉行となった木村芥舟の姪である今泉みねが『名ごりの夢』で、おじいさんのいるお浜には梅の林が続いていてと記す、その梅林をよそ目に(彼女はまたその御殿の縁の下には金銀の棒が置かれていて、金砂子銀砂子が撒き散らしてあったというウワサを、楽しげに思い出している)、もう一つの鴨場である庚申堂の池に沿って松の茶屋からお伝い橋を渡り、中島の御茶屋へ行く。この池が、海とつながる汐入りの池である。この御茶屋こそ将軍や御台が遊び、明治になって天皇とグラント将軍(大統領)が会見を行ったところなのだ。
このあとわれわれは、ところどころに設けられた築山に上ったり、海の魚がいないか池の中をのぞきこんだり、暑い日射しのためノドを潤す飲み物を求めて売店へ走ったりしてすごした。
庭の歴史を付け加えておけば、風雲急を告げた幕末、黒船来航によって浜御殿は海岸防備のため大筒などの大砲が据えられ、鉄砲方が駐留する軍事の庭に、慶應2年には海軍奉行を置いて海軍色の強い庭となった。そして3度目の上洛を果たした14代将軍家茂は大坂城で帰らぬ人となり、その棺は海路で運ばれ、ここに迎えられた。また15代将軍を辞した慶喜も、失意のうちにこのお上り場へと帰り着いたのだった。
明治初年になるとここは皇室のものとなって、外交官との会合、接待のための西洋式石造りの延遼館がつくられた。その後の関東大震災、また東京空襲によって園内の多くのものが焼けてしまったが、敗戦とともに東京都へ下賜され、一時期米軍の演習場とされたものの、昭和20年代後半になってようやく特別名勝および特別史跡に指定され、年を追うごとに復旧工事も進んで、いま見るような庭に復元された。
遊興の庭、接待の庭、また政治・軍事の庭という変遷ののち、いまは年金世代(受け取っている者、受け取っていない者をも含めた)が多く憩う庭となっているようである。もちろん、多くの外国人観光客の姿も多く見受けられる。
最後にまた、当日の日誌から引いておく。

さて、この浜御殿を後に新橋へ向かっているとき、若き日の黒川紀章が建てたカプセル型集合マンションの中銀カプセルタワービルがあって、皆でそれを見上げる。メタボリズムの代表的作品といわれている。また、汐留跡の再開発高層ビルに囲まれた中、復元された旧新橋停車場のプラットホームと鉄道展示室を、木下直之氏の案内で見学する。さらにガード下の飲み屋が軒を並べる、レンガ造り高架鉄道の構造物についても詳しい説明があった。
すっかり日の暮れた7時に散会し、残った18名がすぐ横にあった居酒屋へ飛び込む。木下さんが声を掛けて、小生が遠足参加者3人の手相を見てあげることになったが、われもわれもと長蛇の列が出来て、とうとう酒がよく飲めないまま終わりの時間を迎えてしまった。何としたことか。
後日、木下さんから「手相を見てもらうために人が集まっても困るし、手相を見ることで人が来なくなってもいけないので、以後、手相見は止めよう」とのお達しがでる。

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