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第2回 梅雨時の遠足 「隅田川をめぐる 」

日程

  • 2003年6月14日(土)

案内人

  • 姜雄(東京大学)
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現在、江戸情緒を反映する土地柄と見られがちな向島(墨田区北部)は、1932年の東京市域拡大まで東京市に属さない郊外の土地であった。明治から大正にかけて東京市周辺で産業が発達した場としての向島と江戸の郊外、遊山の場としての向島が重層的に重なる様子を街の様子から読みとって行く。


行程

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  • 11:30 日の出桟橋集合
  • 11:45 日の出桟橋水上バス乗り場出発
  • 12:30 浅草着
  • 13:20 昼食後、吾妻橋東詰で集合 徒歩で北十間川沿いに押上へ 押上から東武線で曳舟経由堀切駅下車
  • 14:00 堀切駅から荒川に臨み、旧綾瀬川沿いに鐘紡記念庭園などをへて 鐘淵から水神大橋まで川沿いを散策
  • 14:30 東白鬚公園へ入って 榎本武揚像、木母寺、隅田川神社(例大祭)、向島撮影所跡地をめぐる
  • 15:15 白鬚橋から町中に入って白鬚神社へ 幸田露伴児童公園、鳩の街商店街を通り再び墨堤へ、銅像堀公園をよぎって言問団子、桜餅で休憩
  • 16:30 長命寺、弘福寺をまわって、桜橋から川沿いに下る
  • 17:20 三囲神社
  • 18:00 吾妻橋で解散、神谷バーにて打ち上げ

隅田川をめぐる、を文章だけでめぐる市原猛志(九州産業大学景観研究センター)

私の目前には、一連の資料がある。「文化資源学会梅雨時の遠足」と記された当日の行程表といくつかの図、そして要旨である。「遠足」自体に参加していない人間が予定コースをぼうっと眺めながら、空想だけでトレースするという何とも無謀な作業を承ったわけであるが、まったくの岡目八目で企画者の意図を鑑みることもまた一興だろう。多少ピントの外れた部分もあるだろうが、お付き合い頂ければ幸いである。
 日の出桟橋からクルーズ船を経由して浅草に巡ると、東京の鋼橋を一望できる。このクルーズ船は2013年現在も運行しており、好評を博している。このコースではいくつかの橋梁を楽しむ事が出来るのだが、勝鬨橋の存在を抜きに話を進めるわけにも行くまい。
開閉橋として有名な勝鬨橋の完成は1940年(昭和15)の事である。当初は万国博覧会のメインゲートと位置づけられ、跳開橋として建てられたものであるが、1970年(昭和45)11月29日の開閉を最後に現在は開かれていない。勝鬨橋が開閉橋として建てられた原因は、その奥にある石川島造船所で建造される船舶の利便性を確保するためでもあったのだが、石張された橋台を見てみると、その造りの丁寧さに今も驚かざるを得ない。
 クルーズ一番の華は、普段通り過ぎるだけの橋梁群を見上げられるという、非日常体験と言えよう。中でも一番の見どころは清洲橋(吊橋)と永代橋(ランガー橋)である。両橋梁は2000年(平成12)に第1回土木学会選奨土木遺産に認定された後、2007年には国の重要文化財に指定されている。
これら橋梁群を含めた隅田川の余裕のとられた橋詰空間は、そもそも震災復興事業の中で避難場所として、また都市の余裕の表われとして位置づけられた。この余裕をそのまま転用したのが、現在の首都高速道路である。日本橋の美観論争としてたびたび議論に挙がる高速道路の建設は、これら橋詰広場を利用して建てられたもので、これもまた川が遺した財産と言える。
 船を下りて地上を歩く。吾妻橋から押上駅に続く北十間川沿いは、ちょうど東京スカイツリーに向かう道に相当する。建物表面を当初のデザインに復元した浅草松屋とともに遠足当時はなかった景色である。この川は農業用水や木材の搬出用として、また近代は花王など沿線工場群の動脈として使われてきたが、これら小さな河川は戦後悪臭がするなどの理由で次々と暗渠化するようになった。スカイツリー建設を機にこの河川を活用し親水空間を建設するよう計画が進められており、その中には北十間川樋門を閘門化することによってクルーズ船を利用すると言う話もある。時代の変貌はかくも凄まじいものかと驚くばかりだ。
 東武スカイツリーラインを経て堀切駅へ。この駅の目前には隅田水門が堂々とそびえる。この水門は元々あった綾瀬川を利用して荒川下流部と隅田川とを連絡しており、現在は隅田川河床の土砂堆積を防ぐ捷水路の目的の他、洪水時には分流の役割を果たしている。
 現在の荒川下流部は1910年(明治43)に起こった大水害をきっかけに作られたもので、最終的には1930年(昭和5)に完成した人工河川である。開削工事の責任者である青山士はパナマ運河開削に関わった唯一の日本人であり、近年改築された大河津分水可動堰(新潟県)の工事にも関わっている。
 ここから川沿いの南へ歩くとカネボウ発祥の地となった鐘淵にたどり着く。カネボウの前身である東京綿商社が1887年(明治20)に紡績工場を創業し、事業を拡大させると糸偏産業の筆頭企業として日本の経済成長を大きく支えた。1969年(昭和44)に工場は閉鎖されるが、関連会社が創業の地の一部を記念公園として公開している。カネボウグループは2004年に産業再生機構での再建が図られ、記念公園もその処遇が危ぶまれたが、関東大震災の記念碑である大震災復興記念碑も含め、現在も公開されている。
東白鬚公園に入りしばらく歩く。板塀のようなマンションをくぐると箱庭のような公園で榎本武揚像が出迎える。晩年向島に居住していた事からこの地に像があるのだが、この榎本は日本の学術界に大きく貢献したひとりでもあった。明治期には幕臣出身者でありながら、逓信大臣や農商務大臣を務める一方、電気学会や気象学会、地学協会や後の日本化学会の初代会長につくなど、万能の閣僚として活躍した事はあまり知られていない。
榎本像からは公園を挟んで向かい側にあり、日本最初の映画スタジオと言われているのが、かつての日活向島撮影所である。1912年(明治44)に4社統合によって設立した日本活動写真株式会社が東京での本格的な活動拠点として設立した撮影所は、関東大震災を機に閉鎖。現在は新設中学校建設予定地として空き地となっている。奇しくも今年(2013年)は、向島撮影所設立100周年に当たる。
1931年(昭和6)竣工の白鬚橋から対岸に渡り、鳩の街へ。ここは戦前から戦後にかけて青線地帯として発展したところで、裏通りには今もカフェー街と呼ばれていた頃のタイル張りの建築が散在する。近隣に住んでいた幸田露伴の旧居は児童公園として整備され、永井荷風が書いた戯曲は映画化もされている。地方都市ではほぼ消滅しかかっている、下町の商店街という雰囲気を遺しているところは東京ならではと言える。
長命寺の桜餅と言えば、江戸時代からの名物として知られる。言(こと)問(とい)団子は幕末からのものと言うが、いずれにせよ江戸からの名物が現在も売られている事には、歴史の奥深さを感じられる。川の風情を感じながら休憩するにはもってこいのお菓子と言える。
最終目的地は三囲(みめぐり)神社。ここを終点の地と選んだのには、やはり水の縁があるからだろう。祭神は穀物の神であるお稲荷様、干ばつの際には雨を降らした神社とも言う。2003年当時との違いは神社には似つかわしくないライオンの狛犬が置かれている事であるが、これはかつて三越池袋店に置かれていたものを2009年に移設、奉納したものという。三井は江戸に進出した当時から三囲神社を守り神としており、その縁あっての奇景と言える。
クルーズのような観光形態でもてはやされている隅田川沿岸であるが、これら東京の水路が現在も「水の路」として使用されていることは意外と知られていない。東京各地で発生するゴミの運搬水路として現在でも水道橋近辺ではゴミ収集運搬船を見ることが出来る。東京は実は今もなお水の都でもあるのだ。
 収集されたゴミはどこに向かうかというと、夢の島の先。東京都が埋立処分場に指定している新海面処分場に運ばれている。東京都のゴミ処分の歴史はそのまま東京湾埋立の歴史にも繋がるわけであるが、今回巡った隅田川の変遷含め、人工的な改変を繰り返した姿が今の東京の大地と言える。川はその歴史を知ってか知らずか、今もなお穏やかな流れを湛えている。

 


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