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第44回 暮秋の遠足  「茅ヶ崎芸能散歩ー川上音二郎・貞奴の足跡をたどる」

日程

  • 2011年11月26日(土)

案内人

  • 古井戸秀夫(東京大学)

解説者

  • 小川稔(茅ヶ崎市美術館館長)
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「劇聖」と呼ばれた九代目市川団十郎は、明治30年(1897)に、茅ヶ崎に別荘「孤松庵」を構え、晩年を過ごしました。その5年後に、3年に及んだ欧米巡業を終えて帰国した川上音二郎・貞奴夫妻がやはり茅ヶ崎に住まいを構えたのは、団十郎を慕ってのことでした。ふたりの邸は伊藤博文によって「萬松園」と名付けられました。その跡地に、現在は茅ヶ崎市美術館が建っています。今年が音二郎の没後100年、貞奴の生誕140年に当ることを記念して、同館で「川上音二郎・貞奴展」が開催されています。書生芝居、日清戦争劇、欧米巡業、川上座、女優養成所の活動などに加えて、本展は、音二郎没後の貞奴にも注目し、彼女が自ら岐阜県鵜沼(各務原市)に建立した貞照寺からゆかりの品が多数出品されています。茅ヶ崎の旧跡を訪ねつつ、同館を見学し、波瀾万丈であった音二郎・貞奴の足跡を振り返ります。


「茅ヶ崎芸能散歩ー川上音二郎・貞奴の足跡をたどる」報告記事沈 池娟 Shim Ji Yeon

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「日本人なら憧れる場所だよ、たぶん」。茅ヶ崎の海岸に私を連れていった友人がいう。「この辺、かっこういい町だし、きれいでしょう。ここに住みたい人も多いと思う」。静かできれいな海辺と「サザンビーチちがさき」と書かれた丸い造形物が印象的であったが、憧れる場所って、どのような思いが含まれていただろうか。

茅ヶ崎駅から茅ヶ崎市美術館へと歩きながら、友人が言った言葉を思い出していた。その街並みも静かできれいだと思いながら美術館へと足を急かす。「川上音二郎•貞奴の足跡をたどる」という今回の遠足、1903年貞奴が『ハムレット』のオフィーリア(折枝という名前を使ったが)に扮した時、白いドレスを身にまとい花束を持った純潔なイメージが頭に浮かんだ。 展示室で九代目市川團十郎の写真と錦絵が目に入る。歌舞伎改良の先頭に立ち、実の娘たちを女優に育てようと思った團十郎。「鏡獅子」錦絵にはその娘たち(実子と扶技子)が描かれている。はじめて歌舞伎の舞台に立った幼い少女たちを当時(1893年)の人々はどのような目で見つめていただろうか。

彼女らの稽古は團十郎の別荘があるこの茅ヶ崎で行われ、川上音二郎と貞奴も茅ヶ崎に自宅を設けたという。彼らによりこの地は芝居の稽古場や俳優養成所と化しただろう。この地で團十郎が新しい女優として育てようとした娘たちと、実際に新しい女優になった貞奴が稽古をしていた。それだけでこの地には何か特別な物語があるような気がする。

川上音二郎が絵の中でオッペケペー節を唄っている。陳羽織に鉢巻、軍扇を持った絵の中の音二郎は少し滑稽に見える。以前オッペケペー節を唄う川上音二郎の絵を初めて見た時、彼を新派劇の祖だと知っていた。このオッペケペー節と新派劇が何の関係が、と不思議に思ったことがある。後に現在知られている新派劇の芸は川上本人ではなくその劇団から離れた団員たちにより形成されたと知った。

一つの絵に目が釘付けになる。髪の毛が逆立って半狂乱状態に見える貞奴が立っている。葭町の芸者として撮られた時の美しい佇まいとはあまりにも違う姿。アメリカで女優デビューを果たした貞奴がパリで「芸者と武士」の葛城に扮した時である。この乱れた姿で息を引き取る彼女の演技がヨーロッパの観客や芸術家たちを熱狂させた。「目の前で死んでいく女性にヨーロッパ人は美しさを感じた。フランスの作家アンドレ•ジイドも貞奴の死ぬ瞬間が一番美しいと称えた。」と古井戸先生はおっしゃる。先生からいただいた資料に書かれたアンドレ•ジイドの言葉をめくってみた。「蒼白な、着物をはだけ、髪を振りみだした彼女が眼を釣りあげて再び現はれたときは更に見事でした[…]これ程の激しい愛情で取り戻された愛人の腕でまっすぐに固くなって死ぬときが一番美しい[…]彼女は死が二人を分ちつつある時、愛の歓喜の叫びを上げ、そして、事切れて倒れ、憎しみ又愛することを終わるのです」。彼女がどのように美しい死に方を見せたか、見てみたくなる。髪の毛が逆だって乱れた貞奴が絵に書かれ写真に撮られヨーロッパ中を回る。 貞奴の絵や写真を見ているうちに当時に踊っていた、演じていた彼女はどのような思いを持っていただろうと気になる。この展示のカタログにヨネ•ノグチという人が貞奴をインタビューした内容が載っている。彼女曰く「日本の芸能は人を人形みたいに作りますけれどアメリカの舞台では生きている女をみせなければいけません」。貞奴は海外経験を通して様々なことを感じ、学んでもいる。その上で彼女はどのように「生きている女」を表現しようとしただろうか。彼女の言葉をもっと聞ければいいと思う。

貞奴は日本の芸能とアメリカの舞台では、俳優としての見せ方が異なると認識していた。しかし、アメリカをはじめとするヨーロッパの舞台で彼女は日本舞踊を踊り芸者を演じた。彼女はその日本的な動きを通してどのように「生きている女」を表現しようとし、他の翻案劇ではどのような演技を目指していただろうか。 彼らの絵と写真が頭の中で絡まり合っている。團十郎、團十郎の娘たち、音二郎、貞奴、茅ヶ崎で稽古する彼ら、そこに集まったいろいろな人々、また、その絵と写真を見にきた人々がここにいる。それぞれのイメージと考えが絡まり合うようにその時代もそうなっていただろう。歌舞伎役者が女性禁止の舞台に自分の娘たちを立たせる。音二郎は舞台の上で明治時代の書生に古代ギリシャ人の名を名乗らせる。貞奴は日本舞踊を踊っていたのに、リアルに「生きている女」を表現しようとする。相反するようなものが混じり合っている。

展示を見終わって、美術館から茅ヶ崎駅まで歩く道は、とても魅力的に変わっていた。町には様々な物語が存在し、その物語によりいろいろなイメージと思いが形成される。それを知る人と知らない人は、その町を見つめる目も確かに違うだろう。この地には近代演劇の先駆者たちの物語がある。美術館でみたものは、その一部に過ぎないと、私は思った。 生まれているのか、引続き考えていきたい。


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