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第32回 向暑の遠足  「新築?復元? 丸の内に出現した三菱1号館を見る」

日程

  • 2009年6月20日(土)

案内人

  • 木下直之(東京大学)

解説者

  • 野村和宣(三菱地所設計)、清家正樹(三菱地所設計)、樋口成康(竹中工務店)、酒井英恵(三菱1号館美術館)
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明治政府より丸の内の払い下げを受けた三菱は、ビジネス街の建設を企て、最初のオフィスビルを明治27年(1894)に完成させます。それが三菱1号館と呼ばれる赤レンガの建物でした。その後もつぎつぎと赤レンガの建物が建てられ、一帯は「1丁ロンドン」と呼ばれるようになりました。しかし、高度経済成長期のさなか、昭和43年(1968)に、三菱1号館はあっけなく破壊されてしまいます。皮肉なことに、それは明治百年を盛大に祝した年であり、文化庁発足の年でもあったのですが、経済の論理は、狭隘化した明治の建物の存続を許しませんでした。ところが、それからわずか40年後の今春(2009)、三菱1号館はその姿を丸の内に再び出現させたのです。「寸分違わず」を目標に、高度な復元技術が用いられました。230万個の赤レンガが中国で生産され、全国から集まった100人のレンガ職人によって積み上げられました。もちろん、この復元も丸の内再開発という経済の論理に支えられたものであることはいうまでもありません。代わりに、昭和3年(1928)に建てられた八重洲ビルが姿を消してしまいました。新築成った建物は、今秋より、丸の内の文化的拠点たるべく「三菱1号館美術館」<http://www.mec.co.jp/j/news/pdf/mec070221.pdf>となります。しかし、歴史的建造物の部分保存という一世を風靡した方法とは異なる、新たな復元の理念をそこに見ることもできそうです。再び甦った三菱1号館は、紛い物なのか、それとも平成21年(2009)の新築建築なのか、建物をめぐる、おそらくひとつの答えは出ない問題を考える機会となるはずです。併せて、東京駅(復元工事中)、東京中央郵便局(破壊中)、明治生命館(再生)などを外から眺めながら、変貌する丸の内を歩きます。


復元された三菱一号館に思うこと―お三、お東、お中の丸の内妄想劇場川瀬 さゆり KAWASE Sayuri(東京大学)

 「お三、お前40年前に死んだんじゃなかったのかえ?」「ええ、おっかさん。あたし生き返ったんだよ。ほら見ておくれよ。この髪も、肌も、足の長さも昔のまんま、あの頃と寸分違わないよ」「信じられないねえ。40年のうちにあたしはすっかり年老いてギシギシの婆さんになっちまったって言うのに。一体どうやって」「簡単よ。若い娘を一人二人死なせたのさ」以上 “もしも三菱一号館が中央郵便局の娘だったら”をお送りしました。さて、これでもう今回の遠足レポートの幕をすとんと下ろしてしまいたいのだが、どうもそうは行かないようだ。時は11月、もはや6月の記憶などない。それでも書かねばならない。ああ〜。

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 生まれは明治27年(1894)。生みの親はジョサイア・コンドル。昭和43年(1968)に一旦消えてしまうも平成21年(2009)に鮮やかに蘇ったお三さんは、昼間はちょっと古風で声をかけても一蹴されてしまいそうな雰囲気を見せる一方、夜、光に照らされたその姿はなかなか艶やか。今回はそんなお三さんのご開帳前じゃなかった美術館オープン前の貴重なお姿を見学させて頂いた。復元の意義については都市計画や建築の方面で様々な議論がなされ、方針としては竣工当初の史料が多く残されていたことから解体時ではなく明治の姿の復元を目指すことになったという。そのこだわりはすごい。特にレンガに関しては当時の製法を求め担当者が上海へ飛び、それを職人の手で一つ一つ積み上げたという気合の入れよう。レクチャーを聞いた後、私たちは二手に分かれ、カフェに生まれ変わる予定の吹き抜けの元銀行営業室や、木の小屋組みを見透かせるガラス天井、繊細な意匠がほどこされた階段の手すりなどを、存分に味わった。かつてオフィスビルとして丸の内に勤務したお三さんは今世紀「文化」「環境」「情報発信」などまちづくりの拠点ガールになるのだ。

 しかしこのお三さんこと復元された三菱一号館の出現を、私は素直に歓迎することができなかった。もうすぐ塞がれてしまう窓を見て、中央石階段の厚みのある白壁が醸し出す温かみを感じて、こだわりにこだわった材料と工法への熱い想いを知って、うん、さすが日本人、心と技を伝える丁寧な仕事っぷりは世界に誇れるね!と感心し、楽しく見学したにも関わらず、感想を一言で表すとすれば「う゛〜ん」の一言がふさわしい。

 別にこれが新築のニセモノと思ってるわけじゃない。1968年には破壊したくせに・・・なんて意地悪なことも言わない。そんな狭量なワタクシではありません。時代の求めに応じて形が変化すること自体はいいだろう。支える論理が変わることも受けとめよう。でも1928年生まれの八重洲ビルを壊して良くて、三菱一号館が再び生まれて良い理由・根拠は何だろうか。わからない。三菱一号館を求める人には八重洲ビルはどうでもいいかもしれない。反対に50年後くらいには八重洲ビル再現!とかされるかもしれない。同じモヤモヤは丸の内の顔・東京駅にも思う。戦後を生きた東京駅は今明治の姿への復元真っ最中だ。戦後の姿は「ハリボテ」「応急処置」などと言われたりもしたが、これだって戦後の姿がダメで明治の姿が良い理由というのはイマイチよくわからない。いいじゃない戦後で。台形の頭で60年もお東さんは頑張ったのだ。

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 三菱一号館に限らず丸の内に来ると思うのは、「みんな『歴史的建造物』が好きだねえ」ということ。三菱一号館といい、東京駅といい、東京中央郵便局といい、どんだけ過去の建造物を残したいのか?なぜそこまで求めるのか?ていうか「その姿」を求める人って誰なのよ?私じゃないよー。ん?なんか共有したいものが私たち噛み合わないね。通じ合うにはどうしたらいいんだろうね。
というわけで「う゛〜ん」の正体は、おそらく私たちが歴史を抱えることの問題に今一緒にきちんと向き合えてない感であり、「私たち」の中に私は入っているんですかとか言いたくなる感じであり、どうも丸の内に来るとそういうベクトルへの不安や不満を改めて感じてほんのちょっとナーバスになるのであり、実はお三さん本人は全然悪くなかったりする。見つめるべきはわれわれ人間だ。

 ここでおもむろに歴史という直線を1本すっと引いて、そこにA地点とB地点の丸をぽちぽちっと書いてみる。A地点がいいと言う人が多ければAになるし、B地点がいいと言う人が多ければBになる。そしてこのAとBの丸というのも結構簡単に揺れ動く。それだけのことなのかもしれない。歴史とか歴史的建造物って一体誰のものなんですかね。人間とはホント勝手な生き物である。

 復元によってある建物の姿がどんなものであったか知ることができる。とても勉強になる。でもその姿を得るために別の姿が消される理由、あるいは同じ建築でもAからBに変えられる時、一方が選ばれる理由と他方が選ばれない理由を消化できなければきっとそれを共に抱えていく気持ちにはなれない、そんなことを思った。問題は建築意匠や都市計画ではない。建物に姿を借りた建物の向こうにあるものを「私たち」はどうやって抱えていったらいいのか。誰もがつながる一地点なんてないのはわかっている。みんな1本の直線の上にバラバラに振りまかれているのだから。それでもどこへ向かいたいのか対話はしていきたい。ほかの参加者は何を思っただろうか。

 変貌を遂げる丸の内には「人間とは何か」がぎゅっと詰まっている。そのほろ苦さに丁度いいと思い、帰り道にVIRON東京店のクロワッサン・オ・ザマンドを買った。店を出てふと左前方を見やるとそこには巨大なクレーンを背負った中央郵便局の痛々しい背中が。「お中さん、あなたも大変だね」私の冴えない声かけに、お中さんが「まあ仕方ないさ」と苦笑いしたように見えた。以上、初夏の日の午後の丸の内完全妄想劇場。


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