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第26回 春爛漫の遠足  「遠州横須賀三熊野神社大祭」

日程

  • 2008年4月5日(土)

案内人

  • 清水祥彦(神田神社)

解説者

  •  田中興平(都市と祭礼研究会、三熊野神社大祭研究者)
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遠州横須賀三熊野神社大祭は13台の「一本柱万度型」という古い型式の山車(これは「神田明神祭礼絵巻」にも描かれ、東京近郊ではすでに廃絶して遠州にのみ残る貴重な型式)が出る祭礼として知られています。老中も勤めた横須賀城主の西尾隠岐守忠尚が、享保年間に江戸の天下祭を移入したのがはじまりといわれています。
 この祭礼は現在でも山車の曳き手が、神輿を土下座して迎えるという、神事と一体となった古い祭りの伝統を忠実に守っています。天下祭初期の姿を彷彿とさせる非常に貴重な祭礼文化です。桜花爛漫の好季に神田祭の原点ともいえる貴重な祭礼文化を皆様と一緒に学びたいと思います。


春爛漫の遠足「遠州横須賀三熊野神社大祭」に参加して岡本小百合 OKAMOTO Sayuri(キュレーター)

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 4月5日の朝10時。袋井駅前に集合したのは、木下会長と着物美人の寺田母娘、それに稿者の遠州駿河4人組。8時に神田神社を発ったはずの江戸組20名の難道中ぶりを未だ知らぬまま、僕らはゆるゆると路線バスに乗り込んで目的地へと向かった。目指すは横須賀・三熊野神社大祭。そこで曳き回される「祢里(ねり)」と呼ばれる山車を見るのを何よりの楽しみに、青空の下をのんびりと走る車に揺られてゆく。

 「ここ数年の大祭は雨知らずなんです」と、笑顔で出迎えてくださったのは都市と祭礼研究会の田中興平さん、今回の遠足の心強い案内役だ。“ねりきち”を自称する田中さんの背中には「か」の大文字がまぶしく、きけば河原町の祭装束だと仰る。田中さんは横須賀河原町に暮らし、4月の大祭と9月の“小祢里(ちいねり)”(子どもたちによる擬似大祭)には白足袋・腹掛・股引・法被に鉢巻の正装で欠かさず参加する傍ら、長年にわたり三熊野神社大祭研究を続けておられる。バス停から神社まで僕らの先頭を足早に歩きながら、さっそく祭の基本を教えて下さった。「横須賀では山車全体を“祢里(ねり)”と呼び、頂上の人形部分を“だし”と言うんですよ」。「へぇ!」。“祢里きち”であることこそが横須賀祭っ子の証だというが、“ねりきち”の氏を“練り歩き好き”だと勘違いしていたほどの稿者は、もちろんそんなことも知らない。実のところ何の予備知識も無いままに「静岡の祭」「天下祭の血をひく大祭」と聞いただけで参観を決めた三熊野大祭だった。しかし、祢里の華やかさや囃子の面白さ、他にない若衆の活気、街道から一本奥まった町内で秘儀を守るかのように営まれている祭の気高さなどにすっかり魅せられ、単細胞もみるみるうちに「にわかねりきち」に転身。遠足翌日には町を再訪して千秋楽の夜祭を見学し、田中氏のレクチャーと御著書から、初めてきちんと祭のことを学ばせていただいた。

 ―三熊野大祭の最大の特徴は、神輿に従って町内を引き回す「祢里」と呼ばれる一本柱万度型の山車と、静岡県指定無形民俗文化財第1号(昭和30年)になった「三社祭礼囃子」と呼ばれる祭囃子とにある。ともに江戸天下祭の形態を受け継ぎ、当地にはそれぞれ文化年間(1804〜1818)、宝暦〜安永年間(1751〜1781)に伝わった(1)。

 701年建立の三熊野神社では古くから神事祭礼が行われており、今日に残る大名行列風の神輿の渡御は江戸初期にはじまったという。史料によれば、付け祭の発端は元禄9(1696)年。今では山車全体を指す「祢里」の語も、この頃はまだ“出し物行列”の意味で使われていた。「(之繞に黍)」の「ねり」の字が記録にあらわれ、祢里(行列)の中で曳かれる山車を指す語として用いられるようになったのは天保年間(1830〜1844年)のこと。山車を「ねり」のと呼ぶ横須賀言葉は、ここに起源をもつのではないかと推測される (2)。

サンプルイメージ 享保十(1725)年になって、付け祭は踊り中心のものから祢里(行列)中心のものへと大きな変貌を遂げた。時の横須賀城主・西尾忠尚が取り入れた「江戸型の付け祭スタイル」への転換である。同じく天下祭に形を倣った祭囃子は約30年遅れで横須賀に伝わり、文化年間には、いよいよ横須賀に一本柱万度型の祢里が登場する。

 江戸天下祭がまだ山車をひいていた頃の最初の統一形態が、今ではこの地にのみ残る「一本柱万度型」だった。源氏車に乗座を乗せて一本柱を立て、そこから天幕、万度、人形台、人形を順に上へと掲げる。その高さ、およそ6m―。

と、メモをとりつつバス停から歩くこと5分。到着した三熊野神社には13台の祢里が勢揃いしていた。「わぁ!」。

 青空と満開の桜を背景に堂々とそびえるその晴れ姿は圧巻の一言。到着の遅れる江戸組への気遣いも忘れ、祢里と若衆の雄姿にほれぼれしながら、境内に組まれた舞台で行われる囃子奉納にしばし見とれた。隣には、朝から沸騰状態にあるであろう“ねりきち“の血を「しちゃしちゃ(下へ下へ)」と鎮めつつ、レクチャーを続けて下さる田中さんの誇らしげな横顔。お話の面白さと華やかな祭風情に魅せられっぱなしの午前の時間は、江戸組不在のまま、こうしてあっというまに過ぎていった。

 電車遅延や大渋滞で難道中を余儀なくされた江戸のバスが横須賀に到着したのは、ようやく午後になってからのことだった。挨拶もそこそこに、総勢20余名となった一団が、築100年を誇る田中邸二階の大広間に流れ込んで揃って昼食の席につく。祭囃子をBGMに祢里の去来を窓ごしに眺めつつ、横須賀ねりきち連や川越法被隊、神田神社禰宜の清水氏らと談笑しながら、豪華弁当や生シラスを堪能する一行。長旅ですっかり(呑み)くたびれた江戸組もここでようやく一心地ついた様子で、午後2時をまわる頃には赤い頬とカメラを携えて、思い思いに町へと繰り出していった。

サンプルイメージ そこだけぽっかりと異空間のようになった祭礼の日の横須賀の町を、悠々と祢里がゆく。電線をくぐり、行き交いには囃子を止めて道を譲り合い、各町の総代前では祢里の枠を下ろし、曳き手は一同土下座して役太鼓を行う。いつまで見ていても飽きない。河原町の「川中島合戦 (3)」をはじめ、各町13台がそれぞれに掲げる山車人形の物語や祢里の形の違いが分かってくると、いっそう見物はたのしくなる。

 しかしあっというまに日は傾いて、町の方々や祭の雰囲気と親しめた頃には早くも江戸組のバスが発つ時刻となった。復路は木下会長も乗り込んだ江戸組の車内は、出発前から宴会場さながらの呈だ。窓ごしに中の様子をうらやみながら、駿河娘も手を振って横須賀の町を後にした。

 静岡育ちの縁、天下祭の縁、文化資源学会の縁と、自身のにわか横須賀びいきに無理矢理な理由をつけながら、私はいま、9月の小祢里に出かける日を心待ちにこのレポートを書いている。遠足と翌日の千秋楽のみならず、本稿準備にあたっても大変お世話になった田中さんに、厚かましくもみたびご厄介をかける腹づもりだ。氏に心からの感謝とお願いのご挨拶を記しつつ、字数オーバーした長文癖の筆をここに置く。

(1)以下、祭の解説はすべて田中興平著『遠州横須賀三熊野神社大祭 そこに江戸の祭文化がある』(平成9年、以下田中本)に依拠。
(2)稿者憶測。ただし「祢里」の当て字の由来と、山車を指すようになった時期は共に不明とのこと(田中本p81-82参照)。
(3)13の祢里のうち、制作年代がわかる最古のもので、嘉永3(1850)年立川昌敬の作(田中本p77参照)。

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