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第20回 浅春の遠足 「市ヶ谷台から九段坂下まで ─「戦争の記憶」に関わる三つの場所─」

日程

  • 2007年3月27日(火)

案内人

  • 春日恒男(芝浦工業大学中学高等学校)
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市ヶ谷台から九段坂下にかけては、「戦争の記憶」に関わる三つの場所が並んでいます。市ヶ谷台の防衛省には、市ヶ谷記念館(元陸軍士官学校大講堂・元東京裁判法廷)と旧軍関係の記念碑及び遺跡群。九段の靖国神社には、靖国偕行文庫と遊就館。九段坂下には、戦傷病者史料館のしょうけい館。 今回、防衛省では、公式の見学コースにはない旧軍関係の碑や遺跡を特別に見せていただくとともに、靖国神社では、「戦後の遺族会史や日本人の『戦争の記憶』を調べようとする人間にとっては、まさに必見の図書館」(吉田裕、2000年)である靖国偕行文庫収蔵の資料についてお話を伺い、また展示施設である遊就館の見学を行います。2006年3月に開館したばかりのしょうけい館を含め、これら互いに隣接する三つの場所が、「戦争の記憶」を未来につなげてゆくために、どのような可能性をもっているのか、皆様とともに考えてみたいと思います。


行程

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  1. 防衛省見学(9:30〜11:45) 市ヶ谷記念館→厚生棟(休憩、自衛隊ショップ)→メモリアルゾーン(慰霊碑地区)
  2. 靖国神社(12:15〜15:00)
  3. しょうけい館(15:30〜17:30) 解説:当館学芸員・植野真澄氏

わたしの戦争博物館(防衛省・〜靖国神社・〜しょうけい館)春日恒男 KASUGA Tsuneo(芝浦工業大学中学高等学校)

その気になれば誰でも博物館を設立できる。空想や仮想ではない。現実の博物館である。そのうえ資金も維持費もいっさい無用。そんなことができるのかって。それができるのである。日本には本格的な戦争博物館がないという。そこで、私は本邦初の<戦争博物館>を設立した。場所は市ヶ谷台から九段下の一等地。そこには防衛省、靖国神社、しょうけい館の3つの施設が隣接している。それらの施設を本館の展示室に(勝手に)指定した。各展示室は多少間隔があるとはいえ、すべて1本の通路で結ばれており、順番に見学できる。展示室によってはミュージアムショップが付設し、レアなグッズも手に入る。おまけに各展示室は完全独立採算なので館長の腹は少しも痛まない。現在、全国の博物館を悩ます赤字問題とも無縁である。2007年3月27日、本館設立と文化資源学会遠足20回を祝して館長自ら学会員の皆様をご案内することにした。
 まず、本館の第1展示室(市ヶ谷台の防衛省)に入ってみよう。日本広しといえども、本邦初の<戦争博物館>の入り口としてこれほどふさわしい所はない。なぜなら、ここは、前回の戦争の結末をつけた所であるのみならず、次回の戦争(もしあるならば)は、まちがいなくここから始まるからだ。現在、防衛省は「市ヶ谷台ツアー」と称して市ヶ谷記念館(旧陸軍士官学校大講堂、旧極東国際軍事裁判法廷)等を一般公開している。私たちは、正門で担当事務官より身分証の検査を受けたあと、美しい案内嬢たち(通称「市ヶ谷ガールズ」)のエスコートで見学した。担当事務官の方は熱心に説明してくださり、市ヶ谷ガールズの皆さんは親切で申し分なかった。しかし、館長という立場から見ると、現在の市ヶ谷記念館の運用については、いささか苦言を呈さざるを得ない。第1に、特別な場合の除き、土・日・祝日の見学ができない。このため、今回の参加を断念した会員が何人もいた。これは、<博物館>としては異常である。第2に、「市ヶ谷記念館」は<東京裁判>の歴史的舞台であったはずだ。それなのに<東京裁判>に関する展示資料があまりにも貧しい。さらに言えば、<東京裁判>の歴史的舞台であったことを特徴付ける工夫が何もない。いったい何のために「市ヶ谷記念館」は保存され、公開されているのだろうか。これはもちろん担当事務官の方や市ヶ谷ガールズの皆さんの責任ではない。本展示室の管理者(防衛省)の問題である。ぜひとも一考していただきたい。
 次は第2展示室(九段の靖国神社)に進もう。ここに来たら、どこかの元首相のように賽銭箱の前で引き返したりしないでいただきたい。境内には遊就館をはじめとして見るべき場所がいくつもある。中でも靖国偕行文庫はぜひお薦めしたい。この文庫は日本の兵士たちの声なき声が詰まった必見の図書館である。どこかの元首相も参拝に固執するだけではなく、たまにはかれらの声にじっくりと耳を傾けたらいかがであろうか。私たちは、白石博司室長のご好意で収蔵庫内も見学させていただき、貴重な資料に触れることができた。  
続いて、神社境内・参集殿の一室において、英霊にこたえる会中央本部運営委員長の倉林和男氏(元空将補)より「旧市ヶ谷1号館保存運動について」の講演を伺う。1987年(昭和62)、防衛庁が六本木から市ヶ谷への移転を立案したとき、当局は、旧1号館(すなわち旧陸軍士官学校大講堂、極東国際軍事裁判法廷)の完全取り壊しを考えていた。当時、同氏は自衛隊OBであったが「当局が歴史を抹殺しようとする」のを感じたという。それから足掛け4年にわたる氏をはじめとする保守から革新まで幅広い人々のさまざまな闘い(集会、デモ、国会での論戦、裁判闘争)が続く。その結果、現在の「一部保存」でようやく決着がつくのである。しかし、同氏は現在の「市ヶ谷記念館」の現状に満足していない。「当時も今も当局には保存後の活用の議論もないし、そもそも最初からそのような意識が欠けている」と批判する。保存運動の最中、同氏は社会党の国会議員と将来、この1号館が保存された暁に「東京裁判の歴史資料館」にすることを考えていた。そして、「1階をあなたたち侵略派の展示室に、2階をわれわれ聖戦派の展示室にして、見学者に出口でアンケートをとったら面白い」と話したという。同氏は学生時代に東京裁判を傍聴して以来、その判決に疑問を抱き続けてきた。保存運動の中心的人物として長らく頑張ってきた同氏だが、今年(2007年)で80歳を迎える。
 最後の展示室(九段下のしょうけい館)は、全国でも珍しい<傷痍軍人>の博物館である。館長は、同館学芸員・植野真澄氏から精神障害兵士の展示を計画中とお聞きし、衝撃を受けた。同氏によれば、現在なおも入院中の精神障害兵士が80余名いるという。平均年齢は80半ば、館長の亡父と同世代である。本展示室は、第1や第2の展示室に比べると地味で目立たないかもしれない。しかし、その重さは他の2つにけっして劣るものではない。

さて、この遠足から6年の歳月が過ぎた。その間の変化について一言述べておこう。まず、2年後の2009年、倉林和男氏が逝去された。同氏にはご多忙にもかかわらず、靖国神社の参集殿で「市ヶ谷記念館」の成り立ちについて講演していただいた。思想的立場からいえば、同氏はいわゆる右派である。しかし、立場を超えて対話ができる懐の深い人物だった。昨今の偏狭な排外主義が跋扈する現状を見るにつけ、同氏のような存在の貴重さを痛感する。また、この遠足が実施された2007年は、第1次安倍内閣により防衛庁が防衛省に昇格した年だった(1月7日に昇格し、その2か月後にこの遠足が実施された)。そして、5年後の2012年12月26日、尖閣諸島・竹島・北朝鮮のミサイルで揺れる日本で、国防軍創設と憲法改正を唱える第2次安倍内閣が成立した。2007年当時、上記の報告文では、誕生したばかりの防衛省を指して「日本広しといえども、本邦初の<戦争博物館>の入り口としてこれほどふさわしい所はない。なぜなら、ここは、前回の戦争の結末をつけた所であるのみならず、次回の戦争(もしあるならば)は、まちがいなくここから始まるからだ」と述べている。2013年の現在、この言葉はますます意味深長になったような気がする。

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