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第11回 黄金週間の遠足 「近代造船発祥の地、横須賀を歩く─産業遺産保存の視点から」

日程

  • 2005年4月30日(土)

案内人

  • 前田裕美(国立公文書館)

特別講師

  • 若村国夫(岡山理科大学教授)
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「近代造船発祥の地はどこか」、答えは、現在の横須賀市浦賀町である。浦賀が1853年(嘉永6年)、ぺリー提督率いる黒船来航の地であることは、よく知られているが、同年12月、徳川幕府直営の我国初の洋式船建造所が設立された地であることは、あまり知られていない。その後、この一帯では2003年3月まで住友重機械工業が造船所(通称、浦賀ドック)を操業していたが、現在は、跡地の保存と活用が、横須賀市の主導で、その一部について検討されているに過ぎない。旧浦賀ドック敷地内には、世界に誇れるであろう、日本で唯一の煉瓦積み乾ドック(1899年(明治32年)築)、大正時代の木造の事務所や工場などを含む建物群とその景観、その他、多数の貴重な近代造船産業遺産とも言うべき産業遺産群が(保存ではなく)放置されている状態である。遠足当日は、横須賀市主催「咸臨丸フェスティバル」が旧浦賀ドック敷地内で開催され、施設の一部が一般公開される。この機会に、これらの産業遺産を、その保存価値や活用方法を考えながら見学する。そして、横須賀市内、記念艦「三笠」、ヴェルニー公園・記念館を訪ね、軍事産業としての造船業がもたらした横須賀市の近代化の足跡をたどる。


行程

  • 京浜急行「浦賀」駅集合
  • 住友重機械工業浦賀工場内外見学
  • 昼食「岩城屋」
  • 京浜急行「浦賀」駅乗車、「汐入」駅下車
  • 横須賀米軍基地正門前通過
  • 三笠公園と記念艦「三笠」見学

新たに遠足報告を書いて感じた遠足アーカイブスの必要性三浦信也(東京大学)

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 2013年のNHK大河ドラマ「八重の桜」は、幕末の会津藩を描いている。2005年4月30日に歩いた浦賀にも、1810年(文化7)2月、幕府の命により、江戸湾を警備することになった会津藩は出兵している。当日配布された資料「うらがストーリー」(『神奈川新聞』掲載記事)には、会津藩の三浦半島の警備は「五百人ほどの侍や足軽とその家族で千数百人」で行われたと推測できることや、教育に熱心な会津藩は三浦半島にも観音崎近くの鴨居に養生館、三崎に集義館の学問所を建てていたことが書かれている。
 遠足当日、京浜急行電車が到着した浦賀駅は近年の開発から取り残されたような感じがする駅で、浦賀という歴史的地名と駅から受ける印象に大きなギャップがあった。遠足は、まず特別講師若村先生の説明を伺いながら、浦賀全体が俯瞰できるマンションの屋上へと向かった。当日は、天気がよく、眺望に恵まれ、浦賀が一望できた。自然の地形に合わせて乾ドック、船台、艤装岸壁などの港湾が形成されていることなど、浦賀の地形と空間を把握することができた。最初に浦賀全体を俯瞰できたことは、浦賀の歩きを実り多きものにした。
 浦賀ドックは、1857年(安政4)に軍艦操練所が築地に設立された際、練習艦の観光丸や咸臨丸の修理のため、乾船渠が築造されたことにはじまる。造船所は、船台やドックなど重い船を支えるために強固な地盤を必要とするため、浦賀のように山を背にした岩盤をもつ海岸べりに造られた。当日、浦賀ドックでは咸臨丸フェスティバルが開催されていた。造船所のなかは、往時を偲ばせる金型が並んだ倉庫やクレーンなどがそのまま残されていた。しかしながら、それらは朽ち果てるがままに放置された状態で、近代造船発祥の地の「産業遺産」としては少々残念な気がした。なかには、1945(昭和20)6月に建造された船渠もあり、敗戦の直前までここで船を造り戦おうと準備していたことが伺え、この「産業遺産」が「戦争遺産」であることも感じた。
 午後は浦賀から汐入まで電車で移動し、横須賀米軍基地正門前を通って、戦艦三笠が記念艦として展示されている三笠公園へと向かった。戦艦三笠は、映画『日本海海戦』をみて受けた大戦艦という印象には程遠い小さな戦艦だった。三笠船内の司令長官室のベッド、バスタブなども、現在の私たちの感覚からすると随分小さく、この約100年間で日本人のサイズ、そして日常生活を支える家具のサイズも大きくなっていることを感じた。また、船内には元寇襲来時の「神風」の御利益にあやかろうと福岡の筥崎宮の必勝祈願のお守りが奉られていた。後年、幕僚が日本海海戦の勝因は運であったが、「7分の運は努力の結果引き寄せた運で、3分の運は天佑としか言いようがない」と語ったといわれていることを裏付けるような戦争文化財だった。
 今回、遠足に参加して、浦賀、そして横須賀が外交(外圧)や国策のなかで発展してきたまちであることを再認識することになった。浦賀は、黒船や咸臨丸が来航した歴史的に有名な地であり、日本で最初のドックが建設され、咸臨丸が修理されたことなど、歴史や資源には事欠かない。しかしながら、これらは浦賀の外からやってきたものである。黒船はアメリカから、咸臨丸はオランダから購入された船で長崎の海軍伝習所に配備された後、江戸に回航され、修理のため浦賀にやってきた。浦賀が主体的に動いた結果ではなく、浦賀の地理的位置や地形上の特性があって、外交や国策等の理由から舞い込んだものであった。歴史に翻弄された地域であるとも捉えられるが、一方で浦賀が主体的に地域をつくっていったことは少なかったのではないだろうか。
 遠足当日に配られた浦賀の再生プラン(浦賀港周辺地区再整備・事業化プラン「歴史・文化・自然・港のまち——浦賀の再生」)は、その後どのように展開したのだろうか。「咸臨丸フェスティバル」はその後も横須賀市主催で続けられているが、インターネットで調べた限りでは、2003年(平成15)4月に策定された上記の計画は、あまり進んでいないようにみえる。計画に記されている2004年からの「第二の開国 開国スピリットによるまちづくり」のエンジンはかかっていないのではないだろうか。浦賀地区のまちづくりのキーワード「開国」はまちづくりの主体である(はずの)浦賀の住民に共有され、すすめられているのだろうか。遠足で訪れた際、「ミュージアム・パーク」などの整備を目指す観光都市というよりはベッドタウン化する浦賀という印象をもった私には、近年住みはじめた新住民と旧住民等の浦賀に対する思いが共有されてすすめられている計画なのか気になった。また、遠足後に起こったリーマンショックや東日本大震災で、ドックの土地を所有する企業の経営環境が大きく変化し、この計画をすすめにくくなっていることも考えられる。
 その後の動向をふまえて考えると、私がこの第11回遠足報告として書いた「浦賀遠足印象記」は若干修正が必要なのではないかと思う。たしかに、以前以下のように書いた歴史と産業文化財を活かしたまちづくりは大切だが、それを支える主体についてあまり考えていなかったように思う。
「1853年のペリー来航、そして、同年12月のわが国初の洋式船建造所が設立されて以降、1960年代までは日本の造船産業の一翼を担ってきたという歴史を活かしたまちづくりが浦賀には必要なのではないでしょうか。そして、今日見てきた歴史的な「産業文化財」を放置するのではなく、観光資源としてきちんと整備したうえで、子どもたちの教育にも活かせるように工夫すれば、これまで浦賀に足を伸ばさなかった人々の足を浦賀まで伸ばさせることになるのではないかと思った遠足でした。」

 最後に、今回新たにこの報告文を書くにあたって当日の資料が大変役に立った。「遠足の趣旨・予定コース」「浦賀ドック遠足用資料(8ページ+地図)」「浦賀港周辺地区再整備・事業化プラン(概要版)」「うらがストーリー(『神奈川新聞』掲載記事)」「開国のまち・浦賀史跡マップ」「記念艦「三笠」——日本最初の保存艦船」「記念艦みかさ観覧パンフレット」などの資料を手がかりに当日を思い出しながら、その後の変化を確かめながら書くことができた。このことを通して、文化資源学会の遠足は、遠足とその報告で終わるのではなく、配布された資料などを(ささやかな)「資料空間」として保存・保管することも遠足の一環として必要なのではないかと考えるようになった。後から遠足で訪れた文化資源を、資料を手がかりに見直してみると当初見えなかったことが見えることもあるのではないか。学会員がすべての遠足に参加できるわけではないので、今後、遠足当日の資料や写真などを「文化資源学会遠足アーカイブス」として保存・保管し、少なくとも学会員は利用できるようにしたうえで、可能なものはインターネットなどを介して一般公開するなど、文化資源学会の活動を広く社会にアピールしてもよいのではないかと思う。「文化資源」という言葉が広く使われるようになった現在、10年前、20年前の文化資源を振り返ることのできる貴重な文化資源アーカイブスになるのではないだろうか。

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