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第4回 晩秋の遠足 「戦争遺跡・松代大本営をたずねる」

日程

  • 2003年11月15日(土)-16日(日)

案内人

  • 春日恒男(芝浦工業大学高等学校)
サンプルイメージ

「松代大本営」は、おそらく国内で現存する最大級の近代<戦争遺跡>と思われます。また、<戦争遺跡>の意味やその可能性など様々な問題を全国規模で提起しているという意味でも最大級の<戦争遺跡>と思われます。今回、この遺跡を実際に歩き、現地で調査・保存運動を進めている方々からお話を伺い、<戦争遺跡>について多様な角度から考えてみたいと思います。



行程

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<11月15日>

  • 象山地下壕見学
  • 《象山地下壕から舞鶴山地下壕まで徒歩で移動》
  • 舞鶴山地下壕・天皇御座所見学
  • 《ホテル送迎バス》→宿舎着
  • 講演および質疑応答。講師:大日方悦夫氏(長野東高等学校教諭・松代大本営保存をすすめる会)
  • 18:30 解散 *日帰りの方はここで終了。宿泊の方は以後自由時間。

<11月16日>

  • 松代散策。所要時間は約3時間。
    宿舎発→真田宝物館→真田邸→文武学校→旧白井家表門(文化財ボランティアの説明)→象山神社・高義亭→象山記念館→旧横田住宅→長国寺→矢沢家表門→松代城跡(2004年復元予定)

松代大本営の過去・現在・未来第4回 晩秋の遠足 戦争遺跡・松代大本営をたずねる春日恒男(芝浦工業大学中学高等学校)

 2003年11月15日、参加者一同は、長野県長野市松代町の象山記念館前で島村晋次氏(きぼうの家 松代大本営の保存をすすめる会、以下、「すすめる会」)と落ち合った。今回の遠足では、筆者(遠足の案内人)はコーディネーターに徹し、現地の案内はすべて島村氏にお任せしたのである。当日の予定は、まず「松代大本営跡」地下壕群(象山地下壕、舞鶴山地下壕、皆神山地下壕))の内、象山地下壕の一部と舞鶴山地下壕の天皇御座所跡を見学する。次に、当日の宿舎に戻り、大日方悦夫氏(「すすめる会」)の講演である。
 最初に象山地下壕に行く。現在、ここは長野市が管理し、一般公開している。公開部分は補強済みだが、安全のため全員ヘルメット装着で入壕する。「松代大本営跡」地下壕群の総延長10キロ余の内、見学可能な場所は、この象山地下壕の一部(約550メートル)にすぎない。しかし、実際に往復1キロの壕内を歩くと、先々で非公開部分の通路が延々と闇の奥まで続き、その迫力に圧倒される。壕の標準的な広さは、横幅が約4メートル、高さが約2.7メートルである。このような壕がこの山の内部には縦横に走っているのだ。案内人の島村氏は壕内に残存する削岩機のロッドやトロッコの枕木を手がかりに、過酷を極めた掘削工事の状況を説明して下さった。戦争末期の1944年11月、当時の植民地朝鮮から2,000人が「徴用」という名目で松代に強制連行されてきた。その後、その数は続々と増え、1945年4〜5月の最盛期には6,000人を越えていたという。当時の労働者総数は約1万人なので、実に半数以上が朝鮮人「徴用工」であった。壕内にはハングルの落書きも散見できる。今回の参加者に韓国人民俗学者のK氏がいた。かねてより筆者はK氏が今回の遠足に参加してくれることを願っていた。なぜならば、筆者が8月に下見でここを訪れた時、壕内に「大邱」(テグ)という文字の落書き(パネル展示)があることを知り、K氏にそれを見て欲しかったサンプルイメージからだ。K氏は「大邱」出身なのである。K氏は「大邱」の文字の前に立つとしばし無言で佇み、それをそっとカメラに収めた。そして、筆者もそのカメラに収めるK氏の姿をそっとカメラに収めたのである。(もっとも、この感動的シーンの4年後の遠足(第21回)で、そのK氏が愛嬢とともに全身着ぐるみの赤鬼と化し、鎧武者に扮した筆者と共に白昼の都心を練り歩くことになろうとは夢にも思わなかったのであるが)。
 次には、象山地下壕から約25分歩いて、舞鶴山地下壕に行く。「松代大本営跡」地下壕群を用途別にいうと、象山地下壕は政府関係、舞鶴山地下壕は大本営・仮皇居、皆神山地下壕は食糧倉庫となる。したがって、厳密にいえば、象山地下壕の見学のみでは松代「大本営」の見学とはいえない。舞鶴山地下壕を見学して初めて松代「大本営」を見学したといえるのだ。しかし、仮皇居(宮内省・皇后御座所・天皇御座所)予定の建物は、現在、そのまま気象庁精密地震観測室として使用されており、見学には特別な許可を要する。その上、参謀本部や大本営作戦室などの本来の「大本営」が入る予定だった「大坑道」は、現在、精密な地震計が設置されているため職員しか入れない。しかし、今回、文化資源学会の見学ということで特別許可が下り、「天皇御座所」の中に入ることができた(通常の見学では外から窓越しに覗くことしかできない)。大喜びの参加者一同は「天皇御座所」で観測室長さんを囲み記念写真を撮った。さらに幸運にも観測室長さんのご好意により、非公開の「大坑道」見学の許可も下りたのである。さっそく、開かずの扉である「大坑道」の入口を職員の方に開けていただくこととなった。ベテラン案内人の島村氏ですら初めてだという。参加者一同、わくわくしながら足を踏み入れた。さすがにその場所は本物の「大本営」であった。内部はすべて半円形コンクリート巻き立てである。象山地下壕で見たような掘削した岩面むき出しの地下壕とはあきらかに趣が違う。ここが<特別な場所>であることは一目瞭然だった。
 すべての見学が終了すると当日の宿舎に戻り、大日方悦夫氏の講演を伺った。演題は「松代大本営の過去・現在・未来」である。同氏によれば、「松代大本営」は戦争の本質を照射する遺跡であるという。沖縄戦とは、本土決戦準備の時間稼ぎである。すなわち、多くの沖縄県民が犠牲となっていた時、天皇をはじめとする国家指導部は「生き残り」のための施設・松代大本営を多数の朝鮮人や日本人の強制労働によって急造したということである。この事実は戦争の本質を余すことなく照らし出す。「松代大本営」が超一級の戦争遺跡と呼ばれるゆえんは、大規模な遺構とともにこの歴史的意味にあるという。また、同氏は、「松代大本営」保存活用の問題点についても言及した。第一に、安全対策と歴史的環境保存の両立である。自治体は安全対策を「過度」に優先して保存工事を行う。そのため現状が改変され、歴史的意味・保存意義が損なわれるので、原点に立った保存方法が望まれる。第二に、見学者の利便性を高めることと、地元住民の生活権の確保である。見学者の増加に従い、この二点は緊急課題となっている。第三点は財サンプルイメージ政問題である。かなりの費用を市財政から支出している。公的負担を継続するためには戦跡の意義を共有する住民世論が必要である。

さて、この遠足から9年後の2012年9月24日付『朝日新聞』は次のように伝えている。「文化庁が明治以降の戦争関連遺跡50か所を選び、03年度から調査、作成中の報告書も公表のめどがたっていない」と。文化庁「記念物課」によれば「さまざまな価値観があり、遺跡の重要性をどう表現するか難しい」という。当然ながら、この「松代大本営」も「すすめる会」の長期にわたる運動にもかかわらず、「史跡指定」の物件対象にはなっていない。<戦争遺跡>の問題は、依然として「史跡」とは何か、さらには「文化財」とは何かという根本的な問題を投げかけているといえよう。
最後に、木下直之氏の「地中の城」という一文(『わたしの城下町』筑摩書房、2007年、所収)を紹介しておく。すでにお読みになった遠足参加者はご承知かと思うが、これは「第4回晩秋の遠足」の秀逸な報告である。とりわけ、同書207頁11行目のパラグラフは、ぜひともご一読を。「天皇御座所」で能天気に記念写真に興じていた筆者としては、この箇所を読み、粛然となった。さらに、蛇足を許していただくならば、『わたしの城下町』そのものが秀逸な「遠足報告文」集成である。『遠足50回誌』の読者は併せて熟読玩味されたい。

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