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第3回 彼岸前の遠足 「多摩の「聖地」と「墓地」めぐり」

日程

  • 2003年9月20日(土)

案内人

  • 山内直樹(編集者)

多摩地域は江戸・東京よりはるかに古い歴史をもつ地域です。その多摩が明治時代をむかえて、それまでとは違う表情を持ち始めます。首都東京の都市の発展と人口増加によって、新しい多摩がつくられてゆくからです。今回は近代の、東京にとっての多摩の「聖地」と「都市化」を考えてみたいと思います。


行程

サンプルイメージ
  • 11:00 高尾駅舎/皇室のための貴賓室(公開していません)
  • 11:30 武蔵陵墓地/大正天皇多摩陵・貞明皇后多摩東陵/昭和天皇武蔵野陵・香淳皇后武蔵野東陵/陵南公園(東京オリンピックの自転車競技場)/京王御陵線多摩御陵駅前/東浅川宮廷駅跡(1990年、焼き打ちにあってなくなりました)/東京オリンピック・モニュメント(中学生たちがつくったもの)
  • 13:00 高尾駅→日野駅/日野宿の名主役佐藤彦五郎旧宅=明治天皇御小休所
  • 14:00 日野駅→立川駅→多摩センター駅
  • 14:45 パルテノン多摩見学/旧富澤家
  • 15:30 京王多摩センター駅→京王永山駅からタクシー
  • 16:00 旧多摩聖蹟記念館入口/満洲開拓殉難者之碑/明治天皇野立所の碑/明治天皇・昭憲皇太后の歌碑/旧多摩聖蹟記念館/五賢堂/三条実美別邸対鴎荘跡/小野小町歌碑
  • 18:00 聖蹟桜ヶ丘駅で解散

多摩の「聖地」をつくると「墓地」めぐり山内直樹(編集者)

「朕が百年の後は必ず陵を桃山に営むべし。」この明治天皇の遺詔に従い、陵は眺望絶佳の、秀吉が形勝を利して堅城を築いた伏見山に定められる。ただ、桃山の文字はよいけれども世俗のことばから出ているので陵名にはふさわしくなく、「因りて此の地の總名にして、古来歌枕と爲れる伏見の二字を冠し、皇陵を伏見桃山陵と名づけ」る(『明治天皇紀』)。

伏見桃山陵のときはまだ陵墓地に関する規定はなかったが、京都を離れて天皇の東京も長くなったことから、1926年(大正15)、「将来ノ陵墓ヲ営建スへキ地域ハ東京府及之ニ隣接スル県ニ在ル御料地内」とすることが皇室陵墓令に定められる。これにより、1927年(昭和2)2月、大正天皇の陵所は南多摩郡横山ほかの御料地(のちに隣接する民有地も買いあげられる)に決まるが、この地もまた横山や多摩が万葉や古歌に詠まれた歌枕の地であることが決め手となった。あるいは、そのように意味づけられた。
さて、われわれが「遠足」の待ち合わせ場所にしたのは中央線の高尾駅、かつての浅川駅だった。この駅舎は、大正天皇大喪の礼のとき新宿御苑に臨時に設営された仮停車場を移築したものである。ここに貴賓室が設けられたのも、天皇・皇后や皇族方の陵所参拝の折の休憩、列車待ち合わせのためであった。しかし昭和も終わり近くになると自動車による参拝が多くなって使われなくなり、われらが集ったときも貴賓室は固く扉を閉じたままで中をうかがうことはできなかった。

雨降る中参集したものは38名。濡れながらとぼとぼと甲州街道を歩いて、上円下方形の多摩陵に参る。すぐ横の貞明皇后の多摩東陵、また隣の昭和天皇の武蔵野陵、香淳皇后の武蔵野東陵にも参る。案内人はここで大正・昭和天皇大喪の礼のときの、また陵設営時の工事の写真を掲げ、示す。大正天皇の多摩陵への参拝者数は1か月半で約43〜45万人であったが、のちにこれらの参拝者をあてこんで多摩御陵前駅がつくられるものの、1945年(昭和20)、不要不急線とみなされて運休し、廃線となる。また大喪列車運転のため臨時につくられた東浅川駅も昭和30年代に廃されて八王子市に払い下げられ陵南会館となったが、1990年(平成2)に過激派による焼き打ちで焼失してしまう。陵の参道付近は東京オリンピックのとき自転車競技の会場となったが、いまは運動場と公園がひろがっている。

さて、お昼時となって日野へ移動し、かつての甲州街道日野宿本陣へ入る。土間に対し床上の高さが80センチ近くもある、なかなか趣のある18畳の広間でソバを食べる(この当時、まだ文化財と食事処は分離されていなかったが、数年後にソバ屋は移転し、日野市指定文化財の本陣のみとなる)。

この本陣の名主佐藤彦五郎は天然理心流の近藤周助の門に入り、自らも屋敷内に佐藤道場を開いて近藤勇、土方歳三、沖田、井上らと稽古に励んだ。近藤勇とは弟弟子の関係にあり、また彼の妻は土方歳三の姉であった。のちに新選組が結成されると、精神的・財政的援助を惜しまなかったと言われている。

食後、中央線で立川へ戻り、そこから多摩の丘陵へ向かって空を飛ぶがごとく走る多摩モノレールに乗りこむ。多摩川を渡った先の万願寺駅の下方に土方歳三の生家がチラリ見えたようであった。多摩センターで降りてパルテノン多摩へ寄り、多摩に関する歴史・民俗展示を見る。実はこの建物の後ろに広がる公園の一角に、連光寺村名主で日野宿寄場組合南組の大総代であった富澤政恕の家が移築されているのでそれを見学したかったのだが、時間の都合で割愛した。

この富澤政恕は近藤勇とは兄弟弟子であり、新選組の人たちと深い交流をもっていたたいそうな文化人である。1864年(文久4)、上洛したときの彼の日記には次のように記されている。2月2日「壬生邸なる新撰組の近藤勇山南敬助土方歳三井上源三郎沖田惣司等の旧友を尋問す此日近藤氏ハ会津侯の召に応し出仕不在なり」、3日「巳の刻近藤勇騎馬にて入来昨日尋問せし折不在なりしを謝し暫らく方今の形勢を談して帰りぬ」(『旅硯九重日記』)。その旧富澤家住宅に、かつては近藤勇から贈られた鉄扇が飾られていたように思う。

1927年(昭和2)3月、「国民新聞」に次のような広告文が掲載される。

「畏くも明治天皇三度行幸の地京王線関戸駅付近向ノ岡に接近セル丘地。眺望絶佳。遊園地グランド別荘地に好適売地約三万坪。面談。……児玉四郎」
児玉四郎は明治天皇の事績を調べるなか、めぐり合った大地主の宮川半助に頼まれ、児玉名義の広告を出す。この記事を元宮内大臣田中光顕の秘書が目にし急ぎ児玉を訪ねて、その地が明治天皇の多摩の聖蹟であることを知る。向ノ岡は武蔵野から南方を見て向うの方に帯のように丘陵が続いていることからその名が生まれ、『武蔵地名考』によれば北は多摩川、西は霞の関(関戸)から東は橘郡末長の里(川崎市溝の口)まで6里におよぶ丘陵である(『多摩の聖蹟』)。関戸駅はいまの聖蹟桜ケ丘駅だ。

天皇は1881年(明治14)2月、八王子付近での狩猟に出た翌日、連光寺村に兎狩のため立ちよる。それを迎えたのが富澤政恕・政賢親子だった。雪の降るなか向の岡や大松山などで行われた兎狩には勢子として多くの村人が動員され、兎6羽が捕獲された。ここを気に入った天皇は1週間後にまた兎狩を望むものの、侍従長の言を入れ中止する。それから3月半ほど経って多摩川での鮎漁に、またその後も明治15年2月と17年3月に兎狩と、都合4度も連光寺村を訪れたのであった。このように気に入った連光寺兎狩・鮎漁であったが、しかし天皇はこれ以降、陸軍大演習や公務以外の外出を固く行わず、ただ皇太子や皇族方には健康・修養のためこの地での遊猟をさかんにすすめた。

そのような明治天皇の特異な「聖蹟」であることを知った田中光顕はリヤカーに乗って現地を視察し、すぐに富澤政賢や土地所有者の宮川半助らと聖蹟地保存のための連光会を組織する。ちょうど大正天皇の陵所が多摩に決まったころである。話は進んで、1930年(昭和5)に連光会を多摩聖蹟記念会と改め、記念館建設と周囲の公園化が決定する。そして、明治天皇行幸を記念する鉄筋コンクリート造りのモダンな多摩聖蹟記念館が完成する。その工事に多額な援助をした京王電気軌道は郊外日帰りハイキング、史蹟めぐりのブームにのって京王を利用した多摩陵、高尾山、聖蹟記念館をめぐるコースを、また記念館を中心とする遊園地化を考えていたが、記念館を精神修養の道場にしようとする田中光顕とのあいだで意見が対立し、のちに京王が手を引く事態となる。

先に名の出た宮川半助は、近藤勇につながる家の者であった。彼に経済的な問題があって土地を売り出すことになったのだが、田中らの聖蹟保存を聞いて、大松山を中心とする3万坪のうち半分の土地を寄付することになる。宮川家としてはかつて「勤皇の志士を斬った罪亡ぼし」の気持ちもあったようだし(『多摩聖史』)、案内人もまた10年ほど前に、宮川氏の縁者から「つぐない」による土地の寄付のことを聞いている。昭和初年は子母澤寛の『新選組始末記』『新選組異聞』が出て、また会津侯のお孫さんが秩父宮妃にということもあり、新選組の周辺が見直される時期にも重なっていた。

多摩聖蹟記念館は京王電鉄が手を引いたあと運営に苦労するものの、大戦中は精神発揚、修養のための施設として多くの人たちが訪れることになる。戦後も、時が経つうち老朽化が進み取り壊しも検討されたが、1986年(昭和61)、多摩市有形文化財として「都立桜ヶ丘公園を訪れた人々の憩いの場」へと生まれかわる。「聖蹟」記念館は「旧」をつけて、したたかに生きのびたのである。多摩という土地、新選組、名望家のこと、また連光寺行幸のころは多摩においても自由民権の運動がさかんであったことなどを思いながら、記念館に入って、渡辺長男の明治天皇騎馬像や田中光顕が集めた志士たちの遺墨などを見てまわる。

雨のためバスに乗って聖蹟桜ヶ丘駅へ帰ったが、三条実美邸だった対鴎荘跡や御駒桜、小野小町歌碑などのある向の岡(対鴎台)へ行けなかったのが残念であった。天皇の兎狩はそこから始められたからである。

なお、表題にある「「墓地」めぐり」は、聖将山東郷寺や多磨墓地の名誉霊域に並ぶ東郷平八郎や山本五十六らの墓所も見学しようと考えていたが、これはちょっと時間的・距離的に無理であった。

この「遠足」から10年。改めて現地をまわってみれば、対鴎荘跡は多くの碑が建ち並んだきれいな公園となり、横に巨大なマンションが聳え建っていた。また、高尾駅の貴賓室も4,5年前に取り払われてラーメン屋へ、そしてパン屋へと様変わりしていた。


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